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​Artist voice

 

 

「ミュージシャン」2015年10月16日

僕は「ミュージシャン」と呼ばれるのが好きではありません。何故なら、「ミュージシャン」という単語が社会において「悪い印象」しかないからです。この間逮捕された「自称ミュージシャン」 また、先日逮捕された厚労省の職員はその見た目が「ミュージシャン」と言われていました。社会の中のクズ!犯罪者といわれる人たち、すべてではないですが「ミュージシャン」という言葉でレッテルを貼られている、そんな場面を見ていると本当に悲しくなります。音楽家が音楽だけを追求して生きていける?んなバカな!社会性をもちあわせていないミュージシャンの音楽なんて聴きたくもない!!!!!!!!

 

「社会の中で生きる」2015年10月16日

ちょっとした言動や考え方で、その人が社会の中でどのように生きてきたか?がわかってしまいます。ってすんごく変な言い方ですよね(笑)社会の中で生きるってどういうことなの?社会の中で生きるということにこだわってほしいって多くに願います。社会、組織の中って基本、義理人情では動いていないです。すんごくドライでクールです。だって売上と利益出なかったら生きていけないんですもん。そりゃ当然です。だから義理人情では売上も利益も存続も難しい。だから「甘える」のではなく「方法」を常に見つけて実行するしかないんですよ。義理人情ってのはクールでドライな中で生きていくうちに染み出してくる副産物のようなものです。というか、ものすごく言いたいこ とがあって、でも言えない。そのことにも腹が立つし、認識の甘い、常識に欠けた大人、甘さの中で人生を過ごしてしまった大人を見ているとつい、強い口調で言いたくなってしまうのです。言ってないけど。ってゆーかー、何でこんな当たり前の常識についてこんなに言わなアカンのか?そのことにも腹が立つ!社会性なき芸術性はいらん。芸術性以前に社会性をしっかりと身につけろ!と言いたい。

 

「内側と外側」2015年10月15日

「内側」にいるか?「外側」にいるか?は非常に重要。それはなかなか自分だけでは見極めることが困難です。ですが、俯瞰してみると位置が見えてきます。ただ、自身の立ち位置がわかったからといって、逃れようとしても逃れることはできない。また、ぶら下がろうとしてもぶら下がれない。急激に変化させようとすると、無理が生じて壊れてしまう。だからじっとしている、変化を求めず「変質」を待つ、そこかなと。

 

「時間耐効果」2015年10月12日

以前、ヨーロッパにいて、帰国してしばらく経って「効果」について考え始めたとき、猛烈な自己批判と反省があった。そのときから自身の仕事のやり方が大きく変わった。「何を、どこを、見ているべきか?」がわかったら計算をし始めたが、結局は、「計算は想定を測るだけのものに過ぎない」ことに気付き、ネコに教えてもらった「ネコ理論」が原理を代弁していることがわかった。日本だろうが、外国だろうが、自分自身は変わることはないし、変わることの美徳は幻であることがわかった。

 

「過信」2015年10月12日

人生いろいろだねぇ~男という生き物は過去の成功事例を過信しすぎる。それがすべてに「最適」とは限らない。ただ、ひとつ言えるのは「ネコ理論」は見知らぬ自分を発見する貴重な声であり、その声はビジョンだ。

 

「原理」2015年10月10日

人として表現する、また或いは人ではないものとして表現する。この2つは物理的には変わらないが意識は変わる。そして表現しない世界とは人としての、人ではないものの意識を可能な限り消してしまうことだと思うのだが、人が人として、表現しない、というのは単に意識だけのことであって、それは、実は原理に沿っているということがわかった。

つまり、短くいえば、「表現しない、とは原理に沿っている」ということ。
そして、自由度が高ければ高いほど、原理に沿いやすくなる。そう考えると、人間ってこれまた捨てたモンじゃないなと思えるのです。

 

 

「      」2015年10月9日
楽器にしても何にしてもそうだが、多くのモノを所有していると、だんだん欲しくなくなっていく自分に気付く。楽器もいくつか持っていたけれど、結局使っているのはBachだし、(予備としてYAMAHAがある)エフェクターだってたくさん持ってたのに、使っているのはBOSSのコンパクトだけ。そうなってくると所有欲はどんどんなくなってきて、結局最終的に「身ひとつでいいんじゃないの?」ってことになる。音楽も、詰め込んで作っていた昔からどんどん音が必要なくなっていって、しまいには実音ですら必要なくなってきて、そのかわりに眼に見えるもの、空間も音、っていう認識になってきた。これって、決して単に削り込んでいるんじゃなくて、必要なくなったもののかわりに少ない要 素にかかるある種の「責任、役割」が大きくなっただけだ。そうやってどんどん本質、核に近づいていくと音楽にしろ、何にしろ、「時間」「人」「心」「それらを支えるために必要なモノ」だけに落ち着いてくる。だから例えば、絵画を観て気に入っても買うことはなく、その絵画の中にある音や言葉、声などが僕にとって大切な財産となる。
あと、また別の話なんだけど、何が正しいかどうかは、判断材料が論争において最適かどうか?ということにかかっている、それだけのような気がする。

 

「音の火種」2015年10月4日

音が持っている時間や広がりよりも、人の身体の中の一点に音が響いていることが実は一番大切。身体の中に響いている小さな振動、音楽の始まりが壮大な音楽へと変貌していく。音が音楽になるのではなく、思いが音楽になっていくのだ。

 

 

 

「流れ」2015年10月2日
大きなお金の流れの中で仕事をしていると、流れに異変がおきてしまうとそのあおりを喰らってしまい共倒れしてしまう。だけど、大きなお金の流れとは異なる流れに乗っかってるとさほど大きな打撃は受けない。僕らの仕事は、大きなお金の流れに乗ることができれば確かに潤うし経済的にはうれしいことなのだが、なかなかそうはいかないし、前にも書いたけれど、アートがクローズアップされていくことで、アートの本質的な価値は大きく落ちてしまう。だから大きなお金の流れとは異なる、もっと小さな流れの中で小さく稼いでいるほうが実直で被害も少ない。

以前、「スポーツニュースはあるのにアートニュースはない!これではダメじゃないか!」と書いたことがあったが、今思う、「アートニュースはなくてもいい」と。また、目新しいけど中身の薄い、アートや、そのトレンドなんかをマスに発信してもどんどん陳腐化していくだけなので、それだったらNHKでも民放でもいいので、「芸術史」としてどんどんドキュメンタリー番組を作っていってほしい、今以上に。何故なら歴史をしっかり伝えないのに、いきなり今ある薄いアートを伝えても文化創成につながるわけがない!からである。それだったら先人、偉人、大先輩方の作品や批評、歴史を「本を読まなくてもきちんと網羅できる」くらいの濃いドキュメンタリー番組を作ってもらいたい。あと、 芸術については作家の声と同時に、評論家の声をしっかりと出すべき。ただ、その評論家の質が大きな問題ではあるが。

 

 

「作家は人生を"着こなす"それが作品である」2015年9月29日

「着こなし」の「こなし」とは「慣れ」をあらわしながらも、「慣れ」という「時間の蓄積」をあらわす。とても素敵だ。「聴こなし」された音楽は多くの耳と心を染めながら、人を通じて時間を超越していく。なんと素晴らしいことだろう。衣服が身体に馴染む、そのシルエットからその人の「時間」を知る。そんな音楽をしていたい。

 

「キャベツと音楽」2015年9月28日
1週間分の献立をたて、食材を買いに走る。キャベツ1玉といえば、5日間の夕食で毎日使わなければ消化できない。だが毎日キャベツだと飽きる。だから炒めにしたりときには昆布と胡麻油でサラダにしたり、千切りにして豚しゃぶの付け合せにしたり、漬物にしたり、ロールキャベツにしたりといろんなアプローチでキャベツに挑む。僕は普段、音楽を作るときはトランペットの多重録音だ。いい空間を作るためにいろいろ奏法を使う。このこととキャベツレシピって似ているような気がする。

 

「文化」 2015年9月27日

文化、かぁ~ 文化、ねぇ~…僕は日本の食文化が好きです。特に西日本!!肉食文化だったらドイツ。スイーツ文化だったらフランス。

でも、好きな芸術は「大きな文化」になっていないんです。しかもクローズアップされればされるほど陳腐化しちゃうのです。芸術が「文化」にならないと、いや、「ある程度大きな文化」にならないと生きていけない。だけど、大きくなりすぎると腐ってしまう。だから大革命なんて必要ない。個人個人がそれぞれに小さく育んでいけばいいのです。その中で「歩留まり」を上げていけばいいのです。あとは、それらを観察しているウォッチャーが増えていけばちょうどよいのです。そうか、ここにも変えなくていいものがあったんだね。

 

「不満?」2015年9月27日

会社員時代、先輩社員と「会社の要求が厳しい」などと不満を言いながらいろいろ話していたら、その先輩社員が言った。「不満があるくらいが健全だよね~会社に何も不満もなく完璧に社員に沿っていたら、そのほうが危ないよね」いやーまさに名言だと思った。労使はひとつの目標を持ちながらも立場はまったく異なる。だから不満はあって当然。労働者サイドにも不満があるのと同じく、使用者にも労働者への不満は当然ある。不満も何もなければその会社は潰れるってことだ。そりゃ当然ですわ(笑)んで、思った。今、文化について、なんでみんなわかんないんだろ?なんできがつかないんだろ?といろいろ思うところもあるのだけども、

「あ、このくらいが、実はちょうどいいのかもな・・・」って。
気がつかない、何だかあんまりわかんない、それくらいのほうが実はちょうどいいのだ。と、考えると少し気が楽になった(笑)

 

「変化していいものとよくないもの」2015年9月25日
って~のがあると思うんですわ。例えば、さらに美味しくしよう!と力んで美味しいのに味を変えてしまう紅◎とか・・・そのままでいいのに、そこから進化させようとしてよくない結果になってしまっているものってこの世にわんさかある。そのことに気がついて僕も仕事のやり方が変わっていきました。いや、変わっていったというんじゃなくて元に戻っていった、といったほうが正解かもしれない。物足りないくらいがちょうどいい、満たしてしまうと、そこから始まるのは「飽き」だ。音楽もそう。人の耳はそんなに丈夫じゃない。だからもっと要素は少なくていいしもっとそぎ落としていい。よく、耳に心地いいことが作品としてよろしくない、という声をきくことがあるが、いやいや、心地いい ところから核心にせまっていきましょうよ!と言いたい。自身の「絶対規模」を広げることは大切だけど、それはお客様にとってはあんまり関係ない。それよりも自分をどこに置くか?で見えてくるトータル(相対)を見つめているほうが面白い。

 

「バランス」2015年9月23日
ここでのバランスは一般的な?意味でのバランス。確かに僕は初回5万枚売れるだけの音楽をしていない。だけど5万枚売るための音楽を作らなければならない、とも思ってはいない。そのままやって売れるんだったらそれはそれで素晴らしいことだけれど。ただ、音楽を通じて社会の中で生きているので、もう少し「歩留まり」を上げたい。それだけなんです。自分の好き勝手に音楽をしているわけでもないし、かといって流れにはまっているわけでもない。売れないからこそ、売る努力をしている、ということなんですね。だけど、だから、自分で自分を評価しないですし、評価は第三者に任せます。信頼を得たならば仕事になる、イコール収入になる、それを続けているだけなんですね。最近、よく勘 違いされてしまう場面があるのでちょっと書いておきました。

 

「新しさは古きの中に」2015年9月21日

若い頃、「新しい音楽」に野望を持っていた頃、あまり謙虚ではありませんでした。新しさは古きを知ることを基本に次に進むこと。だから「新しさ」に貪欲なときは大切なことを忘れていたように思います。「新しさ」を求めて、今現在、「新しいもの」と呼ばれるものに残念ながら「良さ」をほとんど感じません。生きてきて、先人の偉業を目の当たりにして本当の新しさとはもう既に過去にあったものなんだなと気付いたとき、「新しさ」への興味が消えてしまいました。「新しさ」を追求するよりも大切なものを見つけたからです。それが今に続いています。先人の偉業、先人の言葉にはたくさんのヒントや大切にしなくてはならない本質に溢れていてそこに触れることができることで「新しさ」と かではない、もっと大切なものに気付かされるのです。そして、そんな中、自分自身も良き影響をうけながら、共感していけることで自身が成長していることを確認できるのです。今、私達のような若くてまだまだひ弱な者たちにできることは、先人の声をきき、生きる糧としていきながら後進に伝えていくこと、その中で作品を出していくことなのではないだろうか?それが一番大切なのではないだろうか?と私は思うのです。

 

「数」2015年9月18日

僕らがいるような、オリジナリティが求められる世界でも、たまに感じる「数の多さだけ」による判断や評価の盲目さ。「良しとする数の多さ」だけで作品の価値が決まってしまうことを危惧している。何故なら、発信者は数を集めることだけに執着してしまい、受け取り手は数に依存させられることにより、作品の良さや本質を見ようとしなくなるからだ。ただ、逆に現代において「良しとする数」をまったく得られない作品はやはりそれなり、なのかもしれない。あくまで現代においては。

作品の良さ、その本質を読み取れる人は少ない。だけど、良さと本質を感じることができる人は多いと感じる。
だから、鑑賞者も作家、演者も寄り添いながら互いに高めあえると良いなぁ、と思う。

「数」ということについては露出の問題もある。どういうところで感じるのか?例えば、メレディス・モンクを知らない音楽家や振付家がいること、がわかりやすい例かもしれない。

今はネットもあり、情報が氾濫し、検索機能が著しく低下している。だからこそ演者や作家は発信することが必要不可欠となる。そのやり方にも工夫が大切だ。

そして作家、演者、鑑賞者の方々も貪欲に考え、探すことが大切だと思う。

 

「連帯」2015年9月18日

人間に限らず、生き物は細胞が「連帯」して生きている。一枚の葉が枯れ始めると、となりの葉も枯れはじめる。その連鎖も美しい。細胞が持つ本能と生命体が持つ時間は大きく「連帯」していると感じる。細胞の記憶と蓄積、「老いる」とは美しき「連帯」の軌跡。「老いる」ことは素晴らしい。だから「老い」は「負い」にあらず、人生を「追い」かけること、なのである。
そして「老いる」とは「人生を"追い"かけるため潤滑"オイル"」が増していくことでもある。

 

「空と海の関係」2015年9月16日
目の前にありながらとても遠い存在。お互いを見つめあいながらも物理的には「わかりあえない距離」を持つ。それが空と海の関係、いや運命だ。
目の前にあるものがウソかホンモノか?は基準がどこにあるか?で決まる。だから、空の層にあるものと海の層にあるものでは環境も異なるし「ウソかホンモノか?」の”基準”も変わってくるだろう。だが、空と海はそんなことを気にせず互いを見つめ合っている。
人間社会という複雑で近接した中でも、わかってほしい人にわかってもらえなかったり、伝えなければならない人に伝わらなかったり、そんなすれ違いが日常からあるが、そう思うと、人間社会であっても、同じ人間界の層にいてもすれ違いがあるのに、空と海は物理的にわかりあえない距離にいながら常にお互いを見つめている、そんな関係は素晴らしいと思う。

 

「対の原理」2015年9月10日

表裏一体、前後左右、善悪、etc... 対極にあるものは実は同じ場所にいるのかもしれない。だから両方知る必要がある。そのうえで各々が「バランス」をとればいい。「バランス」はシンメトリーである必要はない。シンメトリーになる「位置」はあくまで”見本”だ。「位置」は常に変化するし、それぞれだ。自然体でいられる、原理に沿っている状態、それが「良きバランス」だ。そして、対極にあるものとして「距離」を生み出すのも人間だ。

 

 

 

「変換と転換」2015年9月2日
クリエイトって何?ということを社会から突きつけられている今。基本的には真似できないことをやっていたいとは思う。ただ、真似ができないものとはいってもはちゃめちゃで、ベースがないもの、という意味ではない。そこにはやはり「裏づけ」があることが基本である。そのためには訓練として、分析したりそこから書法や手法を実験的に模倣してみたり、ということは初期の段階では必要だ。

 

今までずっと「分析」することが楽しかったが、ここ近年は「分析」を「感じること」に変えていった。「分析」は作品を作るためにも、「知る」ためにも必要とされているが、「感じる」ことができなければ本当の意味の「分析」もできないだろう。また「独自性」という言葉にも要注意だ。「独自性」というからにはいくつかのクリアすべき点があるからだ。まず、「すべてが独自」である、ということを知ること、「独自」というからには長年の継続があるということ、そして第三者が「独自性がある」と呼ぶこと。これらを満たして初めて「独自性」という入口に立つのだろう。また、「独自性」があるからといって良いものであるとも限らない。

「分析」を「感じること」に変えてわかったことは、いつも書いているが、「音符の外側に音楽がある」ということに始まり、「すべてが作品の要素になる」ということだ。それはもしかしたら会場での空調や体感気温だって作品を左右するかもしれないし、タイミングだって大切だ。救急車で運ばれるくらい体調不良のときに作品は楽しめないだろう、そういうことだ。だが、本当に強い作品というのは要素を満たすだけでなく、作品(表現)自体が空気をがらりと変える力を持っているかどうか?ということだ。常にそこを目指すようになってきている。

 

クリエイトって何だろう?今、社会から突きつけられている中に欠点を見出すことはできてもまだまだ本質までには宇宙の広さほどの距離があるように思えてならない。

 

 

「”元々”ひとつだったものが細分化されていくと力を失っていく」2015年9月1日
何にせよ、元々ひとつだったはずのものがカテゴライズ、細分化されていくとどんどん先細ってしまい、弱いものになってしまう。何故か?カテゴライズ(細分化)されることで人々は「カテゴライズされた中でしか物事を考えなくなり、”元々ひとつだった”ことを忘れてしまう」からだ。そしてカテゴライズ(細分化)は人口の増加と比例している。カテゴライズ(細分化)されていくと、「説明」が必要不可欠となってくる。説明することは悪いことではない、だが、説明することに囚われると本質を突くことはできないし説得力もなくなる。物事は常にシンプル。

 

 

「音楽は音から始まることはないし、音で終わることもない」2015年9月1日

 

 

「住宅ローンを完済したわけ」2015年8月31日
97年に證券会社大手、山一證券が倒産した。それまで、就職や生活では特に不満もなく、大変ではあったが日々を過ごしていた当時、とても衝撃的であった。97年はマイホームを買った年でもあった。とにかく、早くやるべきことはやっておこうと結婚2年目に今現在の家を購入した。そしてこのとき、消費税が3%から5%に移行するときでもあった。毎月10数万円の返済も特に苦しいと思ったことはなかった。給料がとても良かったのだ。ところが、この山一證券の倒産はずっと脳裏にあって、「あぁ・・・大企業だから安泰という時代はもう既に終わっていたんだな・・・」と実感していた。いかに自分の身を守るか?そのことを一生懸命考えた。そして、「やっぱり”実業”でなければ結果、生き残れないんだろうな。」とも思っていた。日々仕入れて、作って、販売し、翌日の仕入れをして残りを利益として守る。この「八百屋理論」は一番実直な商売であると実感していた。
元々、会社を辞める予定はなかった。だが、大手の倒産のことを思うと、いつ自分も路頭に迷っても不思議ではない。だから繰上げ返済を始めた。住宅を購入してから8年で完済したが、繰り上げ返済を始めたのは99年か2000年からだから実質、5年で返済したことになる。いつどうなるかわからない、だから余計なものは持たない、という考えは当たったと思う。ある日計算していて気がついた。「あと800万でローン完済???」そしてちょうどこのときは音大受験の友人と再会したり、彼らがプロとして活躍していることを知って自分もいろんなことにトライを始めた時期でもあった。そんなことが重なり、「よし、会社辞めて音楽の道へ行くぞ!」と計画し始めた。これが2003年である。ローン返済と計画を進めていく時期がぴったり合った、ということだ。今やってることは「実業」ではない。吹けば飛ぶ、そんな仕事だ。内容やクオリティはもちろんだが、「ブランド」になれないと生き残れない、そういう仕事だ。今思う、本当に住宅ローン完済してよかった!と。
そして若い方々に伝えたいのは、人生に目標はあって当然だが、人生の歩き方を誤らないこと。まずは、就職して、「職責を果たす」という社会人にとって一番大切で一番の基本をしっかりやってほしい。人に使われ、人を使う、そして生きるための糧を仕事から得る、これをまず10年はやるべきだ。10年やってやっと見えてくる。よく、言い訳をして会社を渡り歩く人もいる。だが、もし人生に目標があるのなら言い訳せずに、その会社で職責を果たし、その経験を糧として自分の道、人生の目標へと移行すべきだ。会社を腰かけ的に渡り歩いても、何の経験にもならない。何故なら「職責を果たす」ということを継続する期間が一番重要だからだ。

 

 

 

「服、素材」2015年8月30日
湿気と暑いことが苦手な僕は冬でも薄着。今日は暑くないが、夏の格好だ。涼しい風をうけて気がついたことがある。「そうか!服、布が直に肌に接触するから気持ち悪いのか!」もし、風、空気が素材の服だったら一年中不快に感じることはないんだなと。人が空気を手にとることが可能になれば、空気が素材の服は作れるだろうな。デザインも思い通りにできるんだろうな。空気は(を)振動させることができるから振動によってテクスチュアを作れるんだろうな、音みたいに。楽器は空気の振動をコントロールするという発「見」だから、音を作るテクノロジーで空気素材の服は作れるだろうな。ただ、常に身体のまわりに反射もない状態でまた環境に左右される空気の振動をコンスタントに保つためには、ものすごいパワーが必要なんだろうな。まさか体内に空気振動コントロールマシンを埋め込むわけにはいかんしなぁ…だが、上記のテクノロジーで空気振動コントロールによる服、素材が作ることができたら、音楽やオーディオのあり方や常識も覆されるだろうな。空気振動コントロールによる服素材がオーディオや音楽に革命をもたらすだろうな。一応、未来予測として自分の言葉であげておこうか(笑)未来人はこれ、パクってよし!!(笑)意味不明だな(笑)

 

 

「臆病者の声」2015年8月29日
あくまで自身の経験と今までみてきた人やこと、の範囲でしかないのだけど、「大切なものを守るために命がけで闘(戦)わなくてはならない!」というセリフを言う人間に限って、一番大事なときにびびって逃げ出して隠れる。これ、ほぼ9割以上そうだった。会社員時代、命がけ、とまでとは言わないが、身体を張って仕事をしていた。今は、命も身体も張っていない。守るために命をかけて戦うことは無意味だ。守るのは命と身体と家族だけで精一杯だ。そして「どちらかに”ついて”戦う」ことをやめました。くだらないです。”味方についた”ところでどうせ逃げ出すヤツが9割以上なんですから。「どちらか」のために生きてはいけません。自分のためにブレずに生きましょう。あくまで僕の経験談です。

 

 

「雑感」2015年8月29日
よく、「過去を振り返ってはダメだ!」という声をきく。ダメなのかな?でも、大切なのは、振り返ってはダメなときと、振り返るべき、のときがある、ということだと思うのだ。「常にポジティブでいなさい!」本当に常にポジティブでいれるのだろうか?自分に逆らって無理やりポジティブになって、それが本当のポジティブなのだろうか?ネガティブになるときもあっていいのではないだろうか?大切なのは、自分に戻れること、ここなのだと思うのだ。
話は変わるけれど、昨年12月にUPLINKでのクロさんの舞台、あの経験が実は楽しくてあの空間感覚が今でも残っていて心地よい。ああいうのもっとやりたいなー!この前にシェアした「カメルーン オペラ」これを聴いたあと音楽や音は自由奔放に感じるのに言葉と声で作品として成立しているというのがとてもたまらなく魅力的に思えてならない。僕の書いた詩を読んでもらって音を出す。また或いは自分でストーリーを組んで構成したり、そこに自分の音で、、とかやってみたいですね!音も言葉になるし、言葉も音になる。そんな世界を作ってみたい。

 

 

「ポエティック」2015年8月28日
ポエティックなんだけど、「ポエムじゃないもの」にそそられる。

 

 

「音」3015年8月26日
時間を牽引したら、時間の後ろに音を置いてみる。


「歴史」2015年8月26日
人間はせっかちだから、急いで作って、急いで壊す。
だから100年単位で動くんだろうな。人の歴史は。


「流れ」2015年8月26日
予測がつかない台風。まっすぐにならない息の流れ。充満していることに気付かないほどありがたい空気。岩肌を削りながら進む水。それらが音になるから面白い。感情もぶつかることで変化する。その変化が面白い。それが人間の音楽ってもんだ。
そこから、感情の抵抗がなくなっていくと仙人の音楽になるんだろうな。いろんなものが削れていくと大河になるように。


「心の眼」2015年8月25日
肉眼で見えないものを感じるから、眼に見えるものを追いかけるんだろうな、芸術家って生き物は。

 

 

「テクノロジーに驚愕している今~創作の現場から~」2015/8/24

 

数年前、本の論壇にも書いたのだけど、今はテクノロジーの発展に驚愕している時代だ。だから、人の手によってクリエイトされたもの、表現への深い感動よりもテクノロジーに目がいってしまう。ところが、今あるものは古くなる。その次にくるものがテクノロジーによるものなのか?それとも、人の手によるものなのか?それは「今次第」だ。今、人の手によって、手仕事によって生み出されているものがとても窮屈なところに押し込まれていて、そのことが私達の仕事のやり方にも影響を与えてしまっているし、人の手によって生み出されるものが軽んじられているように思えてならない。以前書いた文章では、「今あるものが飽和(スタンダード化)してしまったその先に、やっと私達の時代がくるだろう」と記してある。また、「3~40年先」とも書いてある。「創作」「個を活かす」とは何なのか?そのことを「真剣に」考えていくこと、そのことを「真剣に」考える人が増えてくることでしか、近未来の創作の現場は救えないだろう。だから今、僕は「原点」を探っている。「原点」とは何か?それは「何故、感覚を”五感”と呼ぶのか?」という疑問から「原点を探る旅」は始まっている。

 

 

「執着」と「憧れ」2015/6/21

「執着」が遠のいていくと「憧れ」がやってくる。その「憧れ」は次の地平への「執着」へと変貌してゆく。「執着」と「憧れ」は常に丸い輪の中で遠近の関係にある。「遠近」でありながら常に切っても切り離せない関係でもある。

 

 

「言語力について」2015/6/20

この動画を観て思ったのは、我々はもしかしたら「正しい日本語の使い方ができていないと恥ずかしい、文章が下手だから恥ずかしい」という意識が働いてしまいどんどん表現することが億劫になってしまっているのではないだろうか?とも思いました。

 

私の日常は、ロジカルに説明することを基本としながらも「説明が説明を超えていく」ことをいつも心がけています。だから示唆に富んだ表現の仕方をしたり、ポエティックに捉えてみたりするわけです。私の企画書をみたことがある方はご存知かと思いますが、表紙の次のページには必ずといっていいほど「詩」があります。これは、自身が考えていることを言葉=(本当のイコールではない)詩にすることである意味「映像化」させているのです。

 

この動画をみていますと、自身に足りないことが見えてきます。確かに私は文章は上手くありません。もっと効率的に、いや、的確に伝えることが、私自身を更に鍛えることによって可能になるでしょう。最近、編集をしていて特に鍛えることの重要性を感じています。

 

ただ、繰り返しになりますが、ロジカルに説明できることと自身のことを主張することは異なります。ロジカルに説明できることを基本として、その次のステップとして主張していくこと、その主張の中に、作品を創る思いで表現を組み込んでいくことが大切です。

 

以前、さいたま市のスタジオ・バミさんで行いましたワークショップでは、「聴いた音楽、音を言葉にする」「言葉にして描く」「言葉にして動く」という感性のキャッチボールを行いました。ここでは「ボール」は言葉であり、音であり、描かれたもの、でした。

 

また、普段、演出や作品のストーリーを創るときも基本は言葉です。言葉からイメージを喚起させ、イメージをそれぞれのカテゴリーに持ち帰り、それをまた言葉にします。その基本は「連想」なんです。音楽にしろ、絵画にしろ、身体表現にしろ、何にしても言葉は重要ですね。

 

普段の練習も「自分の言葉で奏でたか?」ここを大切にしています。

 

 

「AFTER HOURS 菊池雅章」2015/6/18

音が発せられる必然性のきわみと自身で音を生み出しているそのはざまがとてもよくわかる。自身で音を生み出しに「出かけて」いるときはその人そのものがみえる。そして音が発せられる必然性に身を任せているときはその人の「眠り」がみえる。

 

 

「カタチと手触り」2015/6/18

形と手触りはファーストインプレッション。だからとても大切だ。だが、あくまでファーストインプレッションだから、単に好み、というところで止まってしまうもので”も”ある。ただ、カタチと手触りは内面を顕わにする「きっかけ」でもある。だから、カタチと手触りを通じて言葉を見つけたいのだ。鴨居玲に最近ハマりつつあるのだけど、扱うテーマよりも興味深いのが上記のことだ。深さ、というよりも沈殿し、堆積していく感覚に深く共感してしまう。

 

音楽にもカタチと手触りはある。そして僕ら音楽家はカタチと手触りに「囚われ」がちだ。ここで自分自身を解き放ってみる。すると、カタチや手触り、つまりカテゴリーやジャンル(ほんとに嫌気がさすほど平たくて凡庸なのだけど・・・)関係なく作品や演奏の向こう側を見ることができるだろう。沈殿し堆積していく、崩壊した文の欠片、美しき腐食、つまり、深さの方向、ということか。僕には鴨居玲のような音楽はできないだろうな。だけど、憧れてしまう。

 

 

「言葉の世界~やなせたかしさん~」

校正でどうしてもわからない、判断つかない日本語の使い方があって、明日母に尋ねることにしました。こんなとき、親が持つ知識や教養はありがたいと感じます。息子が尋ねることで母も喜ぶでしょうし。子供の頃、文章が書けなくて書けなくて苦労して逃げていたのに(笑)今では音楽を通じて文章を書いていることが本当に不思議です。自慢になってしまいますが、母が生徒の論文をテコ入れすると必ず受賞するんです(笑)高校教諭時代、母は弁論部の顧問をしていました。どんどんテコ入れをして生徒を全国大会に導いていました。

思えば、僕は子供の頃、詩を書いていましたが、サンリオのやなせたかしさんの目にとまった詩作品(常連でした)や新聞に掲載されていた(こちらも常連)詩作品は母の目を通っているんですね。この写真、以前もアップしていますが、また再び。これ、サンリオ出版のいちごえほんという月刊誌です。この頃「あんぱんまん」が誕生して連載が始まったばかりでした。谷川俊太郎さんの連載もあったのですね。そこにちょこっと僕も混ぜていただいています。詩のタイトルの横の、やなせさんのコメントがあたたかいです。

子供の頃にこういうご縁があったということを考えると、僕は子供の頃から変わっていないのかもしれませんね。また、この絵本のように編集者や監修者も執筆したりイラストを描いたりする、その自由さは今関わっている季刊「音楽の世界」にも通じるものがあります。

 

 

 

「音楽のDNA」2015/6/16

日本音楽舞踊会議の機関誌、季刊「音楽の世界」春号の特集「私の今年の研究テーマ」では川島素晴さんらをはじめ多くの方々が執筆されている。私もその末席を汚しているのだが、その中でやはり気になる安田謙一郎さんの記事を再度読み直してみた。レコーディングに苦手意識を感じると書いてらっしゃる安田さんだが、その苦手意識こそが先日の素晴らしい演奏の中に生きているのではないだろうか?と思った。空間意識、響きへの意識、テクスチュアへの意識それがあの素晴らしいチェロの音色を生み出しているのではないだろうか?と感じた。

音は「その場」がすべてではあるが、「その場」だけがすべてではない。そこに生み落とされた音、音楽、その欠片の中にある積み重ねてきたものが、つまり音、音楽のDNAに溢れているということだ。音楽は音はその人そのものだ。また、その人も音、音楽そのものだ。

先日のコンサートでハッと気がついたのだけど、音、音楽の深さとはいったい何なのか?が少しだけ見えたような気がした。音の表面的な部分ではわからないこと、聴こえてくる音だけではないところに音、音楽の深さがある。これはいつも言っていることなんだけどそのことが改めてはっきりと見えてきた。こんなすごい気付きを与えてくれるコンサートだったのだ。

終わってから、邦楽の東音 野口賀功(唄)さんと橘川さんが話している隣でちょっと距離をあけて話しをきいていた。手を前にそろえ、かかとをそろえながら。一生をかけないと一人前にすらなることができない厳格な世界、そのことが垣間見える話に襟を正された。厳密な作法、それが何百年と積み重なっている「血」の世界。だからあの凛とした世界(凡庸な言い方で申し訳ない)になるのだろう。

さて、今日はもうひと仕事やりますか!

 

 

 

「5時間のマラソンコンサートから学ぶ」2015/6/14

なんかね?思いました。曲くん(擬人化)、作品くん(擬人化)が喜んでくれてついつい曲ちゃんがうれしくて歌ってしまうような、そんな「曲がうきうきとうれしくなるような演奏、音を出していたいなぁ」って思いました。作曲家やお客様ということだけでなく、「曲」(曲を擬人化)が”お!いいねぇ~ワシ(曲くん)も一緒に歌っちゃおう!”って感じの音、演奏が出来たら最高っす!ラストの安田謙一郎さんのチェロの弦楽四重奏から学びました。ドヴォルザークもですが「アメリカ」も水を得た魚のように喜んでいたのがわかったからです。僕は即興演奏なので曲というよりは「その場の空気、空間」ということになります。あとは、高橋通さんの作品から学んだ「音が生まれる自然発生的必然性」そして坂田誠山さんの「命を削ってまでも打ち出す圧倒的な説得力」そして北川暁子さんの「気品を言葉にしたくなる、そういう衝動が生まれる音楽」、橘川さんの「音を発さず感情を発する」という重要な音楽の核。昨日の5時間におよぶマラソンコンサート。この短いたった5時間の中でどれだけたくさんの大切なことを学べたことでしょう!!感謝!

 

 

 

「刷り込み?」2015/6/13

今日は打ち合わせでした。商売的な話やリサーチのこと、数字目標などなどいろいろ話しましたが、結局はリサーチして作品の方向を考えるのではなく、作ったもの、そこに思いを込めたもの、「作品」を打ち出す、そこから販路や方向を考えていく。作品は人生の時の流れと同じ。だからそこは決してブレないように進む。方向性を変えていくのではなく、変わってしまうのならわかる。変化はある。だが、無理やり変化させるとブレのきっかけになる。「作品と商品は異なる」という今、現代の”刷り込み”に惑わされない。ex)今は不況今は不況というだけで不況になってしまう。一般的にわかりやすくいえば、「消費は心理」である。それと同じことがいえる。戦略をどんなに練っても、基本的なバリューがない限りそれは絵に描いた餅である。ビジネスモデルは「規模」が一番大事。「規模は関係ない」といえる人々は「規模のデカイことをやっている」。「八百屋理論」がすべての基本。単価でいくらの商売をするのか?絶対金額でいくらの商売をするのか?ということ。八百屋ほどの頻度がない、そういう特性がある商品群ならば、「環状線理論」をいくつか突っ込みボトムアップさせるしかない。(セカンドカンパニー)などなど、覚書。

 

 

 

「アーティスト?作家?チャーハン?」2015/6/13

よくよく考えてみた。今、こういう世の中でアーティストをやっていていろいろ考えることがある。アーティストというよりかは作家(物書きという意味ではなく)でいたほうが良いのでは?作家といっても職人にはなれないのだから、職人ではなく、作家。ここ、説明難しいのだけど。

アーティスト!と胸を張って生きていると、自分の周りには堤防も壁も何もなくなる。そのことは諸刃の剣である。何もなくなるということは自由だが、何もなくなるということは何かがあっても身を守るものがないということ。守れないということは社会的に生きていけないということ。そういう”アーティスト”はこの世にうじゃうじゃいる。僕がここで言ってる「作家」というのは作品を残したり、それが仕事として流通されたり制作依頼があったり、簡単に言えばそういうこと。って思うと、そういう道の歩き方をしているんだなと。

チャーハンを作っていて、美味いチャーハンを作るために試行錯誤してきたけれど、今の具材は玉ねぎとピーマンとハムと卵だけ。かなりシンプルになった。そして今作ってるチャーハンをみてみると、もう既にチャーハンではなく「焼き飯」だ。そのことに気がついたのは今日、すっかり忘れていた焼き飯にウスターソースをかけるってーのをやって食べてみてわかった。そうか、僕はチャーハンを作りたかったのではなく、関西の焼き飯を作りたかったんだ!って。ごはんは固めに炊いて冷蔵庫で水分を少し飛ばす。少なめの油でごはんを潰すのはチャーハンも同じだけど求めている味と食感は関西、西日本の焼き飯なんですよ。京都の大国屋ラーメン?の焼き飯はすんごくおいしかった!それを目指してるんだね、たぶん僕は。

チャーハンを追求していると思いきや実は焼き飯を追求していた。

これとアーティストだったのだけど作家になりつつある、もしくはその両サイドを行き来しているというのとなんか似てるような気がする。

 

 

「ひと」2015/6/12

良き音楽家。いつもみているのは演奏や作品だけではなく、その人そのものが持っているものが際立っているか?そして「偏狭」ではないか?感性が豊かか?人柄はどうか?社会との向き合い方はどうか?演奏や音楽がいいのは当然なのだからそこから先のことを見つめています。

 

 

「広がりとつながり?」2015/6/11

今日はまた別件で打ち合わせ。人選って難しいですよね~ここにこの人を持ってくるとこうなる、そして全体はこうなる。とかありますが、

僕はそこからもっとずっと先のことも思い描くようにしているんです。マイナス面を先に挙げて、マイナス面を克服できる何かはあるか?

どう広がるのか?広がり方はどうか?どういう影響があるか?それはプラスかマイナスか?そこは考えます。また、広がりとは何なのか?

そして「広がり」というものの根幹を思い出すのです。

「広がり」と「つながり」は同じ「がり」ではありますが近い関係のようにみえて実は

とても遠いのです。「つながり」が「広がり」を生み出すことはごく稀ですし、

「広がり」は「つながり」を起因とすることもあまりありません。

「広がり」とはコンテンツが増えることではなく、「内側にあるものの静かな伝わり」があって

初めて広がっていくのです。「広がり」は「発信源」の段階ではどうすることもできず、

「広がり」のきっかけは「伝わるか否か?」なのです。

「広がり」の根幹をやっと見つけることができたここ数年、今の僕の中の

答えなのかもしれません。

 

 

 

 

 

「人間危機」2015/6/10

友人の投稿でシェアされたいたのですが、教育機関では文化系の科目が削除傾向にあります。これは確かに「人間危機」であります。何か物質的な「得」が欲しいと思うのは人間誰しも同じなのかもしれませんね。ところが「得」は必ずしも「徳」につながるわけではないです。といっても世の中が変わるわけではないです。これからはやっぱり、「ある意味”塾”」の時代なのかもしれません。教育機関から削除されていくと、そこからはみ出てしまったものは自ら行き場を作り出します。何かがおかしい?と気付くマイノリティは「ある意味”塾”」に道を求めていきます。あまり詳しくは語れませんが松下村塾もそのような存在だったのかもしれませんね。僕がやっている「人・アート・思考塾」だって企画書を出しても誰も知らん振りですから(笑)世の中の大筋からは必要とされていないものなんだと思います。そこはあんまり気にしていません、「ネコ理論」ですから、僕は。

 

あと、思います。確かに「流れ」や「文脈」は大切ですが、文節と文節の間に筆者は何を思考しているのか?(行間とかそういうことではなく)ここを読み説く力、つまり、沈黙から学ぶ力を多くの方々につけてほしいですし、僕自身も精進していきたいって思うのです。この読み説く力は想像性と創造性を養ってくれるでしょう。想像性と創造性は創作やらアートだのそういうところだけでなく日常生活や社会生活の中で大きな役割を持っているでしょう。それを欠いてしまっている、それが「今」ではないでしょうかね?周りを見渡せば気付くこと、たくさんあるはずです。

 

 

 

「歌心」~感情によって変化する音楽~2015/06/10

練習では当然ですがいろんなことをやります。その中でも特に近年、力を入れているのが数多くある美しい名曲たちを

まるで自分のリサイタルのように演奏することなんです。目の前にたくさんのお客様が聴いている、そういう状況を「心の中で作り出して」

自分一人でMCをしながら美しいメロディを演奏するんです。

 

そうですねぇ・・・たとえば、「今宵は初めてお見かけする方もいらっしゃいますね♪ようこそ僕のリサイタルへ!見知らぬ人どうしが出会う夜、そんな夜にはこの曲ですね♪では、お聴きください”夜のストレンジャー”」こんな感じでMCをいれて本番のように練習しています。一人で”エアライブ”そんなとこです(笑)

 

この練習で一番学べるのは、「そのメロディを演奏するためのストーリー、つまりMCを考えることからそのメロディ、音楽、曲への感情移入ができる、感情を込めるための”何か”を自ら思い描いた”言葉””ストーリー”から得ることができる、そのことが心のこもった演奏につながる」ということなんです。曲の背景や歌ならば歌詞、の理解だけでなく、そこから演奏する本人自身がその曲のストーリーを自身の言葉で思い描いていくこと、そのことこそが曲の理解だけではない「本人自身の音楽」つまり、自分の中に「音楽をインストール」することにつながるんです。この、ストーリーを思い描く時間、それもまた練習なのです。それぞれに解釈があっていいのです。演奏するときに演奏する人の想いや言葉が息吹をとおして楽器に伝わり音を通じて音楽が人の心に届いていく。その音楽を受けとったお客様がそこからまたそれぞれのお客様のストーリーが始まっていく。歌心、音楽とはそういうものなのだと僕は思っていますよ。

 

ブラストライブの2014年夏号Vol.32の中に素敵な記事がありました。

「歌謡Brassだよ、人生は~その1 岸義和氏の場合 その2 松本治氏の場合~」ぜひ読んでみてほしいですね!

そしてこの号にはもちろん!僕の連載THE ART WALLもありますよ!こちらもぜひ!

バックナンバーはこちらで購入できます!

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そして僕の音楽、想いが詰まったアルバム「SLEEP ON THE SOFA」は

ブラストライブオンラインストアにて販売中です!

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「仕事の仕方」2015/6/8

ライブの仕方を考えてみる。集客は当然だが、どういう販売ミックスがいいのか?販売ミックスは売上だけでなく内容のストーリーも生み出してくれる。例えば、スーパーの売場作り、商品構成を考えてみてもそこにはお客様が感じる「生活・食生活のストーリー」がある。商売もアートも同じだ。ちなみに僕は「ビジネス」という”日本語”が好きではない。「商売」でいいのだ。ビジネスという日本語には、「アメ横の売り子が閉店前に最後のひとつの商品を売り切るために走り回る」 「店頭でコミュニケーションをとりながらお客様と会話をする」 「酒屋の前掛けは服が汚れないように、ではなく、商品が汚れないように」そんな商人のスピリッツを感じることができないからだ。

 

 

「命の壁」2015/6/8
ある初老?のバレエダンサーさんといつぞやか話していました。「身体はどんどん動かなくなるし、能力では若い人たちに劣ってしまう。だから60代なら60代の味を出していく、それが生き残る道だよね」 前にも書いたのだけど舞踏の大野一雄さん、高齢になっても、身体が動かなくなっても車椅子に乗り舞台に立つ、その姿、その「踊り」に人は涙する。まさに生きていることがそのまま芸術だ。だから僕には目標がある。自分がもう演奏もできなくなって、それでも「僕の音楽とは何か?」を追求し続けていたならば、恐らく、寝たきりになってもベッドのまま舞台に立ち、楽器を持っていたい。音が出なくても、演奏できなくても命があれば呼吸はできる。その呼吸を楽器に命を吹き込むように伝える。きっとそれが、その音を含めてその空間すべてが「僕の音楽」になってくれるのだろうな。命があるから風を起せるのだから。結局僕を含めて多くの人々は不器用だ。だって、ひとつのことを極めるためには人生すべてを懸けなければならないからだ。だが、音楽、芸術には人生を懸ける価値がある。以前、作曲家の助川敏弥先生に「小西君は仙人にはなれんだろうな・・・」と笑いながら言われたことがあった。その言葉の根っこに気付き始めたからこそ今、いい意味で「慌てている」。生きている間に何を積み上げていくか?それが人生の最後に出るんだろうな、音として、音楽として。

 

 

「生きている世界の視野」2015/6/8
生きている世界、社会の視野の広さによってモノの見え方や価値が大きく変化してしまうのはもったいないと思ってしまいます。つまり、何が重要なのか?ということが理解できないことはもったいないということです。そのことをわからせようとすることも無意味なことなのかもしれません。わからせる必要がある人のいる「場所」にいる自分も視野が狭いということにつながります。僕は学校卒業後、外に飛び出して生きてきましたが外を見ることでどれだけ大切なものを見聞することができて、その見聞を深めることで何が重要か?が少しでも見えるようになってきたことは大きな宝だと思っています。

 

 

「世代・メンタリティ」2015/6/7

僕らの世代の前後から上の世代は、なんていうのでしょう・・・会社や仕事に自身を捧げる、みたいなものが強く、苦しくてもがんばって遂行していく、という感じだったけれど今はその形跡は残っていながらも肝心の「人」がついてこれない、今はそういう時代なのだと思う。会社にいるころは確かにハードで大変だったけれど販売は大好きでした。仕掛けた商品がツボにはまって飛ぶように売れていくのは楽しいものです。結果、成績を残してそれが評価されて、そのこともうれしかったですし。キツイ、辛いことを乗り越えたから次がある、これを本当の意味で実感したのは会社を辞めてしばらくしてからでした。あ、あのときのことが今に活きている、あ、これもそうだ、あれもそうだ!ときつい、辛い、苦しいからこそ考えて仕事をすることは後々の自分を助けてくれます。

ですが、思います。よく考えてみると、今47歳になって会社辞めて音楽活動を始めて8年目になります。そして、父が亡くなった年齢まであと11年(父は58歳で亡くなりました)、それを考えると、きっと人生はあっという間に終わってしまうんだろうな、と予測はできます。ではあと10年20年の残された人生をどうやって生きるか?を考えたときに結局は「やりたいことをやりきって生きる」これに尽きるなと。だから、今苦労を乗り越えて云々ということをあえて人には言わないようにしています。だけど、「やりたいように生きる」と思えるようになったのはやっぱり苦労してきたからなんだと”も”思います。

社会も変わってきたし、人のメンタリティも変わってきた。だけど会社という組織の体質は昔とそんなには変わっていない。だから無理はしないほうがいいのかもしれない。だけど、できることならば、良きバランスの中で生きていける方向性、道をできるだけ早く見つけることを強く推奨したいと思います。

 

 

 

「クラシカルなものがベース」2015/6/6
何だかたぶん僕には日本人の血が流れていると思う。だから侘び寂びは理解できるし演奏してもそれがベースになってる。でもスイングのノリも好きだし、ロックも好き、だけどやっぱり「クラシカルなもの」が根っこになっているような気がする。「クラシカル」というよりは「吹奏楽」なんだろうな。一番の理想は息を使った楽器なんだけど、ピアノやギターのようにサスティンがしっかりあって、というのがいいな。音楽なのだけど「舞台としての音楽」でありたい。もっとね、下手も上手も良し悪しも全部「味」にしていたいものです。今日は6月6日「楽器の日」です。そして47歳になった日でもあります。47なだけに夜な夜な(4747)仕事しているけれどやることは満載!ありがたいことです!原稿、もうすぐ仕上がりそうです!

 

 

「積み上げと気付き」2015/6/3

そういえば、以前何だかダンスのイベントに音楽で出ていたときに、バレエの男女デュオが出ていて確かにすごいのだけどすごい形相でパフォーマンスしていた。終わってからはけてくるときにもうお互い大喧嘩状態で照明がミスっただのまあなんだか思い通りにいかなかったらしく、それをバックステージで大喧嘩をしながらぶちまけているのをみてなんだかゲンナリしちゃったのを思い出しました。んで、逆説的に思いました。うーん・・・自分たちさえよければそれでいい、というふうにはならないようにしたいなぁと。トータルとして心に響く、そういうことをやっていたいなって思います。それは舞台や本番だけでなく一体感や舞台の外側とか、スタッフさまの笑顔だったり、お客様とのコミュニケーションだったり、また例えば物販だったりその売場作りだったりバランスだったり、細かいところなんだけどひとつひとつを大切に「気付ける人」でありたいものです。そう考えると、僕のルーツはオカリナの宗次郎さんなんですね。終わったらすぐに打ち上げに行ってしまうアーティストさん。でも、宗次郎さんはスタッフひとりひとりに、そして当時アルバイトだった僕らにまでひとりひとりに「お世話になりました、ありがとう」と挨拶されていた。あのスピリッツは大切だなぁ。しかも!僕はその頃はニューエイジ大好き少年だったので、宗次郎さんのファンでもあったのでそれはそれはうれしかったですよ!僕は舞台終わったあとに感想を書くけれど、お客様はもちろんのこと、やっぱりスタッフさんたちのことをたくさん書きたいって思うのです。たぶん10代から20代の間にあったあの宗次郎さんのコンサート、あの場で宗次郎さんのお人柄を知ることができたからこそ、今僕もそのスタンスが生きているんだと思います。そして、やっぱり、自分が生きてきたことの証、作品や実績として残っているものはたとえどんな「思い」があったとしても大切にしていたいって思います。確かにあるんです、「あぁー!たのむー!このYou tubeの動画削除してくれー!恥ずかしいー!」って思うものがたくさん(笑)でも、それをもたいせつにできるだけの度量を持っていたいなー。

 

あ、あとまた思い出した!とある著名なお方に”刺された釘”(笑)

「キミに何ができるかはまったく興味がない、キミが今までやってきたことにしか興味がない」

この言葉は当時ズシン!と重くのしかかっていましたね。会社やめたばっかりではじめた音楽活動、しかも40歳前から!(笑)今まで積み上げてきたものがまったくなかったわけですから・・・普通だったら「おまえ、、大丈夫か?」と心配されてしまうところだろうけれど。そんなときにこのセリフをいわれたらもう、、「死刑宣告」ですよね(笑)でもね、ここで気がついてよかったです。確かにイジワルじゃのぉーと思ったけれど、このときからエンジンかかったわけですから、今思えば感謝の気持ちでいっぱいです!

 

 

「雨音は美しい」2015/6/3
僕は雨音が好きです。屋根をつたう雨音が好きですね。雨粒が屋根と出会い、そのしるしに音を発する。屋根を”つたう”とは、”つどう”ことでもあり、”つたわる”ということでもある。もちろん雨粒たちにそんな意識はないのだろうけれど。また、大雨の轟音も嫌いではない。だって、「轟音」は「go on 」だからね(笑)

 

 

「音楽の棲み分けと仕事のやり方」2015/6/1

■基本となる「爆音」
基本的に「爆音」でなければライブは無意味だと思っています。爆音というと大きいというイメージがありますが、爆音とは爆発するような音をいうのではなく、音の圧や豊かさのことを言います。そして「爆音」で出せることがまず一番の「最低条件」でそこから音量と空間のバランスをとるのです。そのことで音空間は更に豊かになります。では何故?何故?爆音でなければならないのか?それは生音とPAからの音の分離を避けるためです。PAと生音が分離していると、ものすごくしらけてしまうのです。音楽にならないのです。だから「爆音」でなければ僕は非常に機嫌が悪くなります(笑)うるさくていいんです。音はうるさくてうるさくてうるさい!!こうでなくてはならないのです。基本は。そしてそこからベストなポイントまでもっていく、ここで音作りはできるのです。だからうるさいくらいでないと音楽は始まらないのです。これは完全なる絶対の大原則なのです。この間ショッキングの上石君とも話しましたが、とにかく現場のほとんどが爆音になりません。機材が振り切れて壊れてしまうくらいに爆音でなければまったく意味がないのにです。音楽の心地よさも、覚醒するような刺激もすべては爆音であることが大前提の基本中の基本の当たり前のことなのです。良い音は「爆音からしか生まれない」のです。やってて気持ちよかった=良い音だったのは現代舞踊協会の公演の音響さんと岡山のスポーツ・文化振興財団の音響さん、もちろん他にもありますがとても印象に残っているのはこの2つです。特に岡山の財団の音響さんは秀逸です!素晴らしい!

 

■音楽の棲み分け
普段、だいたい1000~2000人キャパ、また或いは200~600人キャパのところで完全に音響スタッフが常駐して全部マネジメントしてくれています。会場が500~1500と中規模大規模のホールの場合、空間が大きいのでトランペットの生音を聴かせる必要もなくPAから一括で音作りができます。そしてこういう場合の作る音楽はビートの強いもの、要は爆音で鳴らさないとまったく意味がない、そういう音源が良いかと思います。

また50~100人ほどのキャパの場合だと、爆音はまず望めないので、あえてビートのないもの、低音をそこまで必要としない音楽を用意する、といったところでしょうか。
特に小さなところでは生音が聴こえないように演奏するのは本当に至難の業でテクニックが必要です。呼吸が命の吹奏楽器ですから音楽の命が膨らめば呼吸も音も膨らみます。そこに自然な音場が生まれそれが豊かな音楽になります。音量がなければ抑え込むしかなく、それでは音楽が死んでしまうのです。もちろんそうならないようにやりますが限界はあります。限界はある、という時点で音楽は死ぬのです。

■偉人の例
ちょっと前にトランペッターの近藤等則さんのクリニックを受講したときにミニライブもあったのですが、近藤さんは何があっても動じず、音楽を超えた音楽を示してくださいました。偉大です!その基本はやはり「爆音」です。思いました。「いい音」とはいったい何なのか?そして、人が音楽を超えていく瞬間とは何なのか?その現場を目の前で目撃できたことは非常に大きな宝だと思っています。人は何に感動し何に涙するのか?そのシンプルでありながら根幹中の根幹を垣間見ることができたのです。そこにたどり着ける人は少ないのでしょう。ですが、私は常にそこしか見ていません。そこにしか興味がないのです。あとはたいした問題ではないのです。ということはそれだけ「音楽の核」は演者の中にはなく、受け取る側にしかないのです。だからこそ演者は命をかけるのだと。舞踏の大野一雄さんもまさにその鑑のような偉大な方です。自分が死ぬ0.1秒前まで進化、成長できるか?そのために生きているのですから。

■仕事のやり方
死ぬ0.1秒前まで「生きる」ためにはやっぱり仕事しなきゃダメです。そのために日々考えていますし行動しています。それは僕の中の別人が担当してくれています(笑)どうすれば売上は上がるのか?こればっかりはビジネスセミナーを受講してもまったく答えは出ません。「希望的観測」や「いつか良くなる」ではダメなのです。あ、もちろん「希望的観測」も「いつか良くなる」は当然、当たり前のようにもっていないといけません。つまり、それがあって、ではその次どうするのか?ということなんですね。やはり、どうコーディネートするのがいいのか?どういうつなげ方がいいのか?(これ、ほんの一部)仕事のやり方を常に模索して変化させていく、ここが大事ですね。(ネタぁ~書きません!)

 

 

「地球時間と人間時間」2015/5/28
人間の一生は殆どが100年に満たない。地球の年齢は様々な説はあるが46億年、今現在。だから人は100年に満たない中を区切りごとに変化を刻みながら一生を終える。音楽もそう。人の100年に満たない一生からすると1時間あるシンフォニーは超大作となる。文明が進化していく過程でどんどん効率化されていくことによって、音楽、1曲にかける時間の限界は平均で5分程度となってしまった。まあ、5分程度でもいいが、その5分10分に奏でられる音楽はせめて人のスケールを超えていたいと思っている。地球スケールの音楽を人が作ることは困難を極めるが、地球スケールを切り取ることくらいはできるだろう。そういう音楽をやっていたいのです、僕は。

 

 

「仕事のやり方」2015/5/24
たとえば、新人教育をするときに、「まずは慣れるためにこの作業を午前中はやってね」とじゃがいもの袋詰めをさせる。午後からはニンジンの袋詰め。「今日一日仕事はどうだったかな?」とフォローをいれる。こういう教育の仕方をすると人が育つのは極端に遅くなる。袋詰めなんかは入社してやることではなくて、中学高校のときの職業体験でやっておけばいいことだ。そこで考えて実際やっていたのが、「一日の流れと仕事の流れを一緒にやる」だ。ジャガイモの袋詰めをやっても「全体は見えない」全体が見えないと仕事が見えない。仕事が見えないと職責を果たすという気持ちがゆるくなる。一日の流れ、仕事の流れ、仕事の全体図をまず赴任初日から叩き込む。すると、3ヶ月かかる教育は2週間で終わる。すると、3ヶ月経過したとき、すでに1年間やったぶんだけの実力がつく。また、もっと具体的に言えば、「●●はこの分類だからここに置いてね」とだけ伝えるのなら「全体の一覧表」をみせて同じことを伝えたほうがより早い。仕事の全体を見る、というのは吹奏楽やオーケストラにも通じている。レッスンのときに言うのは、「パート譜は見ないで!見るのはスコアを見なさい」何故か?今演奏している音符の意味、そのフレーズの意味はその前後の他のパートとのかかわりをわかっていないと演奏できるはずがないからだ。そのことに似ている。あと、「やっつける仕事」と「やっつけない仕事」を明確にする。「仕事のテンプレートを常に持っておく」すると時間が作れる、時間が作れれば仕事の本質をきちんと見抜けるようになる。作業に追われると仕事がおろそかになるということだ。これ、すべて経験から得たことです。

 

 

「日常に突き動かされる日常」2015/5/21
日常もまた無常である。一瞬で過ぎ去るのは人の意識と時間だけだ。そんな日常の中から何かを見つけたいと常に思っている。

目に見えるもの、見えないもの、隠れているもの、誰も気がつかない何かを見つけると、日常は無常ではなくなる。

その瞬間は、まるで大作を書き上げたかのような充実感にあふれている。

演奏をしていて、確かに瞬間瞬間に突き動かされる衝動はいつもある。簡単に言えば「キテいるか?キテないか?」。

「おぉ!キテいるな!」と感じているときは意識は身体の外にあり、自分自身を冷静にみている。創作や表現ってそういうものなんじゃないかと。

 

 

「文化」2015/5/19

僕は日本の食文化が好きだ。日本食はとてもおいしい。味覚も日本人は豊かだし立体的だと思う。口にする、身体に取り込む、内側に取り込むということに関して日本人はとても敏感なのかもしれない。だから日本人の内側に向うパフォーマンスは説得力があるのだろう。

衣服の文化、日本の着物は纏う文化、身体のラインを覆うようなカタチ。でも、スーツはとても立体的だ。日本人の味覚が立体的であるのに対し着ているものは平面的だ。このギャップは面白いなあと感じます。

いろいろ考えてみて、僕はやっぱり日本人だなぁと感じます。やっぱり僕の音楽も身体の芯に向っていってるし、グワーっ!と表に発散させるよりはにじみ出てくる感じだし。
確かに音楽は西洋音楽がベースになっているから西洋音楽という舞台で日ごろからやっているのだけど、どうしても逆らうことのできない「血」をしっかり受け入れつつ西洋音楽という舞台の上で「血」にかなった音楽をやることがベストなんだろうな。

 

 

「”結果”がすべて、だけど、”結果”を出すためだけに時間を費やしているわけで”も”ない。」
「” いいもの ”を作れば売れるというのも幻想。だけど、” いいもの ”じゃなければ”売り物”にすらならない」 

2015/5/17

PAについていろいろ考える。よくきく話。「あそこはよくハウるからな」というセリフは他の業者の悪口をいうときの常套句らしい。思う、何故ハウらせたらいけないんだろ?ハウらせないために音量が上がらない=やってて気持ちよくない=お客様も不満。「うるさくても、いい音だったらいいんだよね」いやぁ~なかなかいいこというな~と思った。「爆音でもいい。いい音で届けてほしい」(わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい。の節で笑)モニターだって出音をそのまま返せばOK。「ドラムを下げてナニナニを上げて、んでナニナニを下げて」とかぶっちゃけた話、僕にとってはうっとうしい。出音がそのままステージ上で鳴ってればそれでいい。とにかく、PAは爆音が基本。爆音じゃないんだったらわざわざ大金はたいてPA借りる必要はないでしょう。パワーアンプとスピーカーのリミッター、限界値を最大に(そういう機材)にして、フェーダーはグイっとフルで!激しい爆音でアンビエントやりたい。もちろんいい音で。海外でやるとき、音量や圧はすごく気持ちいいのに何故、国内だと気持ちよくないんだろ?と思い返してみると、「ハウる」ということが根っこにあるんだなぁ・・・と思った。あ、でもローファイな音は嫌だ、僕の音楽では。ローファイは僕の音楽の中では敵だな。

 

 

「人の中は”感性居住区”」2015/5/15

たぶん音楽も美術も言葉もいろんなものは人の中ではひとつ。だからカテゴリーじゃあなくてね、

うーん、、例えば音楽だったら「芸術2丁目」美術だったら「芸術3丁目」言葉や詩だったら「芸術1丁目」とかね?

人の中は”感性居住区”だから、「人の国 人人県 感覚市 芸術町」っていうことなんだとおもうんですね。

だから音楽も美術も言葉もほかにもたくさんの芸術は「同じ町内会」なんですよね♪(^-^)

 

 

「年齢と個」 ~"苦手"を"逆手"に導き武器にする~ 2015・5・12(ブラストライブウェブ版”風を奏でる喇叭吹き小西徹郎のアート談義”連載)

人は生きている限り、常に可能性の塊である。そう信じていたい。ただ、すべてにおいて可能性があると、本音をいえばそうも言えない。

この世に生まれてきて0歳から年齢を重ねていく中で「その年齢のときにやるべきことをやる」ことが大切だ。

その機会を逃してしまったらあとから取り戻すことは非常に困難だ。その年齢のときにできなかったことは一生ついてまわる。

もちろん、「その年齢のときにやるべきこと」をやっても能力によってできないことだってある。僕はその連続だ。

だが、”できなかった”ことは「個」を生み出す最大の武器にもなりうる。だから嘆くことはない。

たとえば、その年齢でやるべきことができず、できないまま大人になったとしても、できないことが”苦手”なものとなってしまっても

できないことを庇おうとする「何か」が人の中で芽生える。それが個を形成するのだ。

三つ子の魂、百まで、といわれるが、三つ子の記憶がないので何もいえないが、少なくとも10歳から15歳、個人差はあるが

この年齢のときに染み込んだものはずっと一生ついてまわる。その染み込んだものと人生がどう付き合っていくか、

そしてその付き合いを楽しめるか?が大切だ。

 

 

「リセット」2015/5/8

何か買おうかな、とか、譜面をPCで書こう、としても・・・買っても使わなかったりとか、譜面はやっぱり手書きがいいなとか、

曲書くぞ!と考えても、なんだ、いつものようにそのまま、思ったまま演奏したほうがいい感じじゃん、とか、

結局いつもの自分にリセットされる。広げよう広げようとすると、スッと一本の筋に”戻る”のだ。ここ近年そんな感じ。

人生はインプロヴィゼーションだが、ぐっちゃぐちゃのではなく、一本筋で、やっぱり美しいインプロでありたいと思います。

「出した音は足跡、その足跡が音楽になっていけばいい」。というかインプロじゃなくていい。囚われなくていい。

インプロは手段、いや、性格のようなものだから。

 

 

「原点」2015/5/7

もし戦争や天変地異で文明がなくなってしまって何もなくなってしまったら僕はどうやって音楽を残そうか?

またはどうやって音楽をやろうか?と以前、妄想した時期があった。まず、紙も鉛筆もないから木か石に自分の音楽の譜面を彫ろう。

電気がないからエフェクトは無理だし天変地異だとトランペットはなくなっているだろうから木を掘り出してマウスピースのようなものを

作るか?もしくは何かを叩くか?それか歌うか?しかない。だとしたら生き残った人たちでボーカルアンサンブルをやるか!

またはディジュリドゥみたいに木を彫り出して筒型のトランペットを手作りしようか。で、エフェクトは洞窟としよう。洞窟に集まって

コンサートをやろうか、など。そこからどんどん妄想はふくらみ、「音楽構造」への興味がどんどんなくなっていった、

あんなにこだわっていたのにね。森の中の生き物たちの営みの音、人の営みの中の音、洞窟の中の水滴、

もうこれ以上の「音楽」があるのだろうか?とも思った。今、自然音を「伴奏」にしているのはそれがしっくりくるからなんだろうな。

 

]真冬の雪原に立ち尽くしたとき、何もきこえず心が落ち着いた。視野を失った耳が感じたのは身体の中の音だった。

外界から遮断されたとき、はじめて人は自身の内面を見つめるんだろうな。そして音とは「振動」であることを再認識し、

音楽とは「感情による振動」なのだと気がつくのだろうな。それが原点だ。

 

 

「大小強弱」2015/5/4

現場の音を考えたときにいつもぶち当たるのが「大小強弱」だ。例えば音量の大小と音の強弱は連動しているようでまったく異なる

次元であると考えたほうがいい。音量を大きくしても音の強さは強くならない。音量を小さくしても音は弱くなるわけではない。

ただ、強い音であっても音量が小さければ「認知”しにくい”」。例えば、コンサートホールでピアノとトランペットで音楽をするときに

気をつけなければならないのは「弱奏部分においての音量の大小のデフォルトと音の源と音が進む向き」をしっかり知ることが大事だ。

また、会場によっては、生音とPAからの音を4:6か3:7でミックスしたほうがいい場合と、「生音は一切聞かせない」としたほうが

いい場合などいくつかある。小さめのギャラリーだと生音とPA(簡易)の音を3:7で混ぜる。小さな会場で天井が高く

ナチュラルなアンビエンスが得られる場合は6:4もしくは5:5で混ぜる。ライブハウスのような場所、あるいは劇場、

つまりメインスピーカー2ミックスドカン!な場所、また或いは野外だと生音は絶対に聞かせない。エフェクトとドライのバランスで作る。

つまり、生音ではなくマイキングされた音だ。

 

要は、最初に書いた「弱奏部分における音量の大小(規模と圧)のデフォルトと音の源と進行方向」を緻密に把握し、

それをPAや会場の形態にあわせて「イコライズ」つまり、同等に合わせる(この例でいうとピアノとトランペット)、

ことが一番最初のスタートだ。これがないと空間作りや演出は決してありえない。

そしてやっと「オーディエンスのための音量の大小」へとつながる。

強弱については確かに音の強弱という言い方をするかもしれないが、この場合、音の強弱はそのまま

「音楽の強弱」となる。この部分がなかなか理解されないのがとても大変!

ところが、音場にとても繊細なコンサートもあった。それは、以前コンサートレポートを書いた、エレクトーンと楽器の

コンサート。会場はエレクトーンシティ渋谷で会場内には音場システムが配備されている。だけどそれ以上に

よかったのはエレクトーンのモニタースピーカーの場所が舞台の前でなく後ろに配置して

モニターとしても、メインとしても使えるようにしていたことだった。たとえば、ピアノ協奏曲、歌曲、のオーケストラ部分を

エレクトーンで演奏しているのだが、指揮者の判断と演奏家の音に対するバランス感覚が非常に優れていて秀逸だったので

誠にいい、良い音のコンサートだった。だからきちんと良き感覚を持っている音楽家やエンジニアもいるのだ。

 

マイクもEQで補正する場合もあるけれど、EQで補正する前に「マイキング」で「出したい音色を探す、そして決める」を

したうえでEQ補正するのかしないのか?を考えてもいい。完全に自然界ではありえない音を作る、という姿勢で

取り組むのならばEQは最初にありき、となる。だが、マイク自体の特性だって、そこで電気を通すことによって

自然界ではありえない音なのだからEQは常に視野に入れておくことが必要だろう。

 

環境によってがらりと変わる音場、だから、こういう場合はこのプリセットで、などとパターン化できるわけがない。

ただ、ある程度の「見積もり」はできるだろう。

 

 

「音楽環状(感情、勘定?)線」2015/4/26

音楽って仕事は「環状線」みたいなものかもしれない。山手線なのか、コミュニティバスなのか?の違いはあるけれど。「その音楽が聴きたい!」というときに運行していないとね(笑)だから音楽という仕事は「終電や運休」があるといけないんだよね。

だから音楽という仕事は山手線を走るのか?コミュニティバスなのか?で様々な環境が変わるから、「頻度」と「エリア=(乗客)」をわかっていないとね(笑)それによって赤字路線になるか?高効率路線になるかが決まると思うんだ。

リリースのタイミングと曲数とか密度とか、ライブの頻度とか、そういう話(笑)人のライフ "サイクル"もライフスタイルも微妙に"大胆に"(笑)変化してるからね。作る音楽に変化がつけることができないのなら、環境の変化を生み出さないとね。そんな話。

 

 

「循環と創造」2015/4/25

知識とか感性とか(感性はどうかわからないがテキトーに言ってみた(笑)って「蓄積」させていくことに重点を置くよりもじゃんじゃん「通過」させるほうがいいんじゃないかな。「蓄積」させ過ぎると重くなるし「生まれてこない」じゃん?

 

 

「信念」2015/4/24

おそらくヨーゼフだってアドルフの「信念」に心酔していただろうしそのことが「自分自身」を「信念という”言葉”」に置き換えてしまった。会社にいて、「会社の方針」があれば「白だろうが黒だろうが」それに従い、向って進む。責任は上がとるから。(でも、誰も責任を取らない社会)地下鉄にサリンを散布することが”救済”であるという「信念」を「信じて」あの事件は起きた。「信念」という”言葉”をそのまま使う人を僕は信じない。「信念」のために「闘う」??何故「信念」という”言葉”のために「闘う」のか?自分のために闘うのならわかる。自分と大切な人を「”直接”(的とは言わずに)被害」から守るために闘うのはわかる。

だが、「信念」という二文字を発する人間のためになんぞ協力するつもりもない。消えてしまえ。

また、様々に転がっている不確実な情報も信じない。所詮人間がやっていることだから間違いもあれば隠蔽もするだろう。何が正しいか?その基準が完全の完璧でないのに議論するだけ時間の無駄だ。

 

 

「心の音」2015/4/16

昔、キアヌ・リーブス主演の「ブッダ」という映画を観ました。映画の主人公のブッダは荒行をしていてどうしても我慢できなくなって川辺に水を飲みにいってしまう。そのとき船の上から聞こえてきた会話、「弦は張りすぎると切れてしまう、緩すぎると音は出ない」この言葉で中道を見つけた。このセリフが今でも心のどこかにあります。圧とエネルギーと振動の関係、なかなか面白いものがありますね。おそらく音にも「感情のそれぞれの帯域」に作用するための役割を持っているのだと思います。自分の出している音が「感情のどこに作用」しているのか?これを知る必要があると思います。「感情のチューニングと音色のチューニング」音楽が育っていくための子宮のようなものなのかもしれませんね。

 

 

「年頃のお子様をおもちの親御さんへ(笑)」 2015/4/15

僕は家の中をうろうろするときに必ず腹太鼓でリズムをとっています。これはトレーニングではなく単に癖です。そうなったのには原因があります。(たいしたこたぁ~ないんだけどね)

小学校のときの鼓笛隊。実は思い出深いものがあります。自分でやりたい楽器を決めることができるのですが、それでも適応できないだろう、という先生の判断があった場合は「笛」になってしまいます。楽器の編成と人の割当にちょっとしたヒエラルキーを感じてしまうのです。僕は当時小太鼓がやりたくて小太鼓に立候補したのですが、「小西君は運動神経が鈍いので小太鼓はできないと思います」というクラスメートの意見から笛になったことがとても悔しくて一人で小太鼓を練習したのを覚えています。夏休みに体育館で打楽器のリハーサルがあるときはこっそり覗き見しながらフレーズ覚えたり、全体練習にわざと出なかったり(笑)

でもね?クラスメートが言った「運動神経のなさ」は自覚していて、そのことが今でも尾をひいています。だからそのクラスメートはちゃんと僕のことをみていたのだなと今更ながら感心します。楽器はまず運動神経がないとできないですから。演奏技術においてはまさに運動神経が演奏の殆どを支配しているといっても過言ではないでしょう。もちろん、例外もありますが。でも、運動神経が鈍いぶん、他のところが発達した、ということも自覚しています。

当時は創作に関する科目においても自由というものはなく、「正誤」がありました。でも、それは手順や方法についてのルールを守らせるという意味での「正誤」だったのだと思います。そのことはとても大切なことです、一応。。。旋律を作る授業でも「間違っている」という評価でしたし、図画工作の授業でも「間違っている」という評価だったので成績はヒドイもんでした(笑)出来上がった、クリエイトされたものへの評価ではない、ここが当時の教育の特徴だったのでしょう。

この「間違い」。「間違い」は存在しないんだ、ということを教えてくれたのが中学時代の吹奏楽部の顧問の中馬先生だったのです。今、僕が仕事の本番前にみんな緊張しているのに僕だけはお菓子食っていびきかいて寝ていられる(爆)本番の5秒前で完全にスイッチが入る、この度胸は中馬先生のご指導の賜物です。この間の札幌のときも出番直前までアホな男子トークで盛り上がっていましたから(笑)

そう、「笛」。「笛」をナメてはいけない!とても奥が深いです・・・結構泣きそうなくらい・・・高校時代は近代、現代音楽とともに古楽が好きでバロックやってました。(吹奏楽以外で)そのことから社会人になってからですがドイツのmoeckのロッテンブルグのアルトを10万で買って吹いていました。(10万のリコーダーだと当時は”おもちゃ”と言われていたがそんなの関係ない!)僕自身、ジャーマン式運指は認めていなくて(笑)やっぱバロック式だろうよ!と思っていました。まあ、素人なりにこだわりはあったわけです。「笛」になったことに屈辱を感じながらものちに笛にハマるという(笑)青春とは面白いものです。

あ!!僕のリコーダープレイ聴いてみたいでしょ?実はあるんです!少しだけど!ブラストライブオンラインストアで発売中の「SLEEP ON THE SOFA」の中の”Beauty”という曲で僕のリコーダー(ソプラノ)が聴けます!

http://brasstribe.shop-pro.jp/?pid=74050198

と、まあ、脱線しまくりですが、僕みたいに成績悪くてどうしようもなくても、とりあえず図体はデカくなるので大丈夫です!(全く説得力ないですが・・・^_^;;)どうか今の子供たちが僕みたいなアホな大人(??)にならないことを願います(爆)

 

 

「音楽は音楽を越える」2015/4/12

音楽は音楽の中になく、人の中にある。だから伝わり、広がっていくものだ。

音や構造だけでは語れない人の生き様、ストーリーがあってはじめて音楽になる。

 

 

「愛と空間の密度」2015/4/9

例えば、男女。相思相愛の中、愛の密度を高めているときはとても幸せで良き盲目の中に愛を育み続ける。ところが人というヤツはどんどん飽きてきてしまう。何故だろう?ひとつの法則があると僕は思っていて、その法則は音楽や芸術にも大いにあてはまる。

 

”満たしてはならない”僕はいつもそう考えている。例えば、「こんなに愛しているのにこんなに君だけを見ているのに・・・」といった状況、これは明らかに愛が満たされすぎている証拠。腹八分目とはよくいったもので、やはり満たしすぎは飽きにつながる。だから「何故もっとかまってくれないの?最近ちょっと冷たい・・・」というのと「ラブラブ」を上手にコントロールするのがいいのだろうね。音楽も空間も同じく。

 

例えば、”水は生きるために大切”だけれども必要以上に満たされすぎてしまうと呼吸はできないし逆に死んじゃう。または滞留すると腐敗してしまう、ということにも喩えることができるだろう。”音楽も満たさない”例えば、5分のトラックがあってそこにラッパのっけてくれ!という仕事が殆どだけど、そのときに気をつけているのは、

 

”如何に5分のうち30秒の演奏だけで忘れられないほどの自分の印象を植え付けるか?”        だ。

 

如何に少ない時間で人の心を虜にするか?(音でパフォーマンスで)ここは常に気をつけている。だってさ、どんなに素晴らしい音色でも5分間全部その音色だけだと”いずれ”飽きてしまうでしょ?たくさん欲望に沿って音を入れすぎないことが大事。

愛も音も色彩もおんなじおんなじ(笑)

 

 

「すべて音楽」2015/4/9

なんだか、僕の中では音や音楽や言葉や色彩や造形がいつもひとつになっています。だから、雲が流れる動きも僕にとっては音楽ですし身体の動きも音楽に聴こえます。言葉も行間も美しい言葉の表現も僕にとっては音楽なのでしょう。ただ、それは僕の中ではあくまで単に「表層」に過ぎないのです。その先にある物語や作品を通じて届く「人の根幹」をいつも見つめています。だから僕は、モノの見方があまり一般的ではありません。そのことが苦しいこともありますが、楽しくもあります。

 

 

「アーティストマインド」2015/4/8

舞台。僕は学生時代にコンサートスタッフのバイトをしていました。音楽業界入りをするためには必要だと考えていたからです。11トントラック5台とか10台とかの中身をさばき、舞台を組み、ゲネ、本番をし、またバラす。その間に物販やタレント受け入れなどの仕事もやっていました。人材不足であっという間にチーフになってしまったのですがこれもまたとても楽しい経験でありました。

あるとき、オカリナの宗次郎さんのツアーのときでした。今までのタレントさんとはまったく異なる或る意味「型破り」な行動にとても感動したことがありました。通常、タレントさんは新幹線を降りてもファンに追いかけられないために秘密の通路などを通ります。そして堅牢な警護の中タクシーに乗り込み会場入りします。が!宗次郎さんご一行は違った!彼らはコンサートホールの目の前のうどん屋から「いやーおいしかったね!」と出てこられてびっくりしました。宗次郎さんの音楽は当時New Age にハマっていた僕にとっては神がかりの存在でしたからまさか!と思いました。そしてとてもフレンドリーだったのです。そして、コンサートが終わってバラシのときに、普通ならタレントさんはすぐに打ち上げ会場に移動しますが、バンドメンバーもバラシに参加。そして宗次郎さんはアルバイトスタッフにまで一人一人に「ありがとうございます!お世話になりました」と挨拶をされていました。この宗次郎さんの人としての姿勢に僕は感動しました。この人の音楽のファンでよかった!幸せだ!と思いました。だから、僕も宗次郎さんの「人としての姿勢」を大切にしたいと常に思っているのです。

 

 

「先人から学ぶもの」2015/4/5

昨日は舞踊評論家の伊地知優子先生が札幌公演にお越しくださり、打ち上げではほぼ独占状態でお話を伺うことができた。明確且つ、厳格な「基準」をお持ちであることは勿論だが、評論家として「作家に寄り添う」姿勢は誠に素晴らしいと思った。また、たくさんのお話の中で感じたのは、誠に聡明でありビジネスの視点も鋭いものをお持ちであることがわかるとともに「あ…ネコ理論だ…」と共感できたことが何よりもうれしいことであった。更に!普段「ネコ理論」の中で私自身が「見えない力、釈然としない部分」において、ある、答えのヒントについてお話くださったことは私にとって眼から鱗が剥がれ落ちるようだった。なるほど…「時」なのだな、と。

「ベテランが活躍できないその分野は崩壊してしまうだろう」と仰る先生。

私もまったく同意見である。そして、バランスが大切だ。

私たち「若者」はまだまだ「我が物」で、少々、「馬鹿者」でもある。先人から学ぶことは山積していながらも、学べる「時」は少ない。この「時」とは「時間」であり、「機会」であり、「気付き」である。人は生きていて自力で視野を拡大することは「ネコ理論」的に困難だ。「時間、機会、気付き」この3つがタイミングよく重なるためには、やはり、「良いバランスの能動的ネコ理論」が大切なのだろう。

先人には本当にいつまでも元気でいていただきたく願う。叱咤激励は「気付き」の結集なのだから。

 

 

「俺は雑菌クリエイター!」 2015/4/2

よく、「机の上の整理整頓が出来ていない人にいいクリエイトはできない」という。その言葉に脅かされるように以前は僕も机の上や作業場の整理整頓をきちんとしていたのだが、性格上無頓着なため継続しない。だからあるときからもう諦めている。ただ、よく考えてみるとはたして本当に整理整頓が出来ない人は本当にいいクリエイトができないのだろうか?

 

たとえば乱雑に積み重なった本や資料、手の届くところにある仕事道具、集中すると座っている場所から動きたくないからまわりにどんどんものが積み重なっていく。ところが、この乱雑な中にもクリエイトのヒントがある。例えば、ミックスをしてて疲れたときに目の前に読みかけの本があったら手にするだろう。その本の中から音楽のヒントを得ることができる。目の前にある怪獣ブースカのフィギュアで遊んでいるといいサウンドデザインのヒントになることだってある。外付けHDの上に積もったホコリをみているといいアイデアが浮かぶこともある!

 

ところがいつもきちんと何もなく殺風景な状態だと気がつかないことはとても多い。と、考えると机の上の整理整頓が出来ない人はいいクリエイトができない、というのはあんまり盲信すべきではないだろう。というか人それぞれなのだろうな。

 

で、ここでまた更に考えてみると、たぶんクリエイトすることとマネジメントすることを同軸に捉えてるからなのかな?とも思った。マネジメント仕事をするときには乱雑じゃあ確かに困る。だが、クリエイトするときはそうじゃない。ゴミもホコリもすべてのあらゆるものがクリエイトの味方だ。だから、整理整頓することだけがすべてではない。逆に机の上が何もなくきれいになってるといいクリエイトはできない可能性が高い!頭がまっさらになるからいい!というのはウソだ!(笑)頭が煩悩だらけでごちゃごちゃしてるからこそクリエイトできるんだ!人間、雑菌だらけもいいじゃないか!(笑)だから世の中の常識に騙されるな!(笑)俺は雑菌クリエイターだ!(笑)

 

 

「自分探し???」20153/31

よく、「自分探しの旅」、とあちこちを旅する人もいるのだけど、それは自分を探しているのではなく単に「自分にフィットする場所」を探しているだけのような気がする。水だって旅をするが水に自意識はない。だから「水は自分を探さない」。水は姿カタチを変えてただそこにいるだけ。水自身に場所がフィットしているわけでなく水は自由にどこにでも存在することが可能だ。「水は自分を探さない」でも「水は自分がどこからきてどこに行くのか」をちゃんと知っている。

 

 

範囲」 2015/3/31
人の”行動範囲”はある程度制限されがちだ。僕だって”行動範囲”は近所と都内くらいしかない。だが、”活動範囲”となれば話は変わってくる。田中氏と話すときはいつもこの話になる。”行動範囲”と”活動範囲”がイコールではない僕らは「特定の範囲の場所」だけでは生きていけなくてとてつもなく広大な範囲で活動していくことが求められる。たまにではあるが、そのとてつもなく広大な範囲にしんどい思いをすることもある。最初から範囲を狭めて活動していればとても濃いネットワークを得ることができて生きやすい、のだがもう小学中学高校時代から既にずっと「外」を見続けていたため「外」で生きていくということの大変さを改めて実感し、面白さを実感しているのだ。海外、確かに海外でもリリースを中心に活動はしているが、国、都市、という大きな範囲に見られがちだが、実はそれは広大な中のひとつの「点」に過ぎない。大切なのはその「点」をたくさん世界中に作り、その世界中の「点」と「点」を結んでいくことなのだ。(ここが大変!)そして大切なのは「点は力点か否か?」ということだ。「点」が「力点」であるならば「点」と「点」はものすごいスピードでつながっていく。(EcholocationやMINDEXで実感)一時期、ドイツに渡ったが、それは学びにいくためではなく、自分を試すためだった。自分を投げ出して放り込んでいくことが結果、学びにつながっていると信じたい。

 

「自分でやらない理由」
自分で海外ツアーを組まない理由に「ネコ理論」の実践というのもあるが、ぶっちゃけた話、外国に飛んで、ライブをやることはお金とちょっとしたコネクションと時間があればできる。そこから脱皮しなくては先がない、と気がついたからドイツ以降は自分では行かないようにしている。だけどコラボやリリース活動は精力的にやってきた、はず。

 

「居場所を持たない」
居場所は持たない、いや、持てなかった。持てるだけの実力がなかったというべきだろうか。いや、とりあえず、地球が居場所だな(笑)

 

 

「深層」 2015/3/27

敬愛してやまないArvo Part。このFur Alinaの本人によるアナリーゼ?いや、解釈?いや、思いが実に素晴らしくため息が出る。円熟さの中にみせる広がり、そこにはちょっとした人と人の心の寄り添いがストーリーであることがとても作家の人柄を映し出しているように思える。音楽を生み出す人間は音楽を思わず、音楽を越えていてほしいと願う。音楽は『大きく』ありたい。私も『大きな』音楽を生んでいきたいと願う。それは例えば目にはうつらない絵画、のようなものだ。表層の奥にある深層を常に見つめていたいのだ。Arvo Part もMeredith Monkも僕自身が飽和したときに戻れる場所なのかもしれない。

 

 

「モノクロームとカラーの距離」2015/3/24ブラストライブWebマガジン掲載

音もまた色彩と近接している、いや同軸ともいえるだろう。

消え入りそうなピアニッシモはモノクロームとカラーの狭間にいるような錯覚に陥る。だが、その色彩の移ろいを感じるためには時間と距離が必要だ。時間と距離は儚さと閉じゆく眼のストーリーに満ちている。それはまるで寝床に入って眠りに移行していくことにも似ている。鮮やかな意識から無意識の世界に歩いてゆくようなものだ。音におけるモノクロームってナンだ?それは色彩(モノクロームも含めて)の定義では収まりつかない魅力に溢れている。僕にとっての音のモノクロームってナンだろう?もしかしたら僕は色彩を時間として捉えているのかもしれない。だから僕の音楽は時間をかけて、人生をなぞらえるようにしながら無意識の中に流し込んでいるのだろう。白色か黒色か?どうだろう?人は一生を終えるとき、やはり白くなっているような気がする。それが僕にとっての音のモノクロームなんだろうな。たとえば、サウンドスケープ。日常の中にある人の営みと自然の営み、これらの音はバラエティに富んでいるが、その根本にある「意識」はやっぱり白色のような気がしてならない。そう、そんな曲がCDアルバム「SLEEP ON THE SOFA」の中にあるんだ。3曲目の「The Father went to Heaven」という曲。亡き父の日常生活の音を再現して、それをフィールドレコーディングしたサウンドスケープをベースに、ギターやピアノ、そこにフリューゲルホルンで音楽を「付け足した」んだ。ぜひ皆さんにも聴いていただきたいなぁ。ブラストライブ オンラインストア(http://www.brasstribe.jp/item/cd08.html)にて購入できるよ♪(^-^)

 

 

「気がつかないうちに失っていくもの」2015/3/24

そう、僕らは資本主義社会に生きているので「売れなければダメ」なのだけど、「売れる」の規模を地球上の多くの人々は最大級に大きいものを基準にするんだよね。例えば、ガンガン稼ぐスポーツ選手と普通のアーティストは人、内容、よりも実績、しかも中身じゃなくて金額の差を同軸でみる。そうなっちゃうとかなわないのは当然。んでその最大級の金額の規模をベースに物事を考えるからいいものはどんどん消えていく。(いいものって何?の議論はおいといて)だから思うんだけど、例えば「子供を守る」「動物をかわいがる」とか他にもあるけどこういうのって、もしかしたら、それが「みんなのスタンダード(無意識下の偽善)」だからそうしてるだけなんじゃないかな?と思ってしまうこともある。もしかしたら、人そのものの本質は既に完全崩壊しちゃってる可能性もあるってことだ。この2つの話って全く関係ないように思えて、実は密接だということに気がつけるだろうか。人は集団の中で常に自分を失いながら生きていることに気がつけるだろうか。「ネコ理論」は基本的に流されていくことを正しいとしているのだけど、流される中で舵をとるのは本人なんだよね。

 

「作る・創る・遺す・残す」2015/3/11

東日本大震災から芸術までをテーマを中心とした対談インタビューでした。非常につかみが難しいところです。以下、インタビュー、対談をしていて記録された中から大きくまとまった部分です。

 

「新たに作る、創る仕事」と「遺す仕事」と「残す仕事」それぞれに役目があるのだろうということ。「今これから」歴史に残る芸術作品とは皮膚感覚として創作している当事者たちによる創作作品なのだろう。これは作品の良し悪しではなく歴史がそれを決定するだろう。狭義としての当事者ではない私たちは、やはり自身の表現をし続けることが大切だ。その中で人々に伝わるものがあればそれでいい。震災のために、被災地のために創作する、ということは非常に大きな責任をもって取り掛かるべきであろう。だから震災から無責任にテーマを決めることはよくない。昨日書いたような偽善に近づいていく表現があふれることで本質は消滅を免れないだろう。ただ、『すべてその人の自由である』。

 

「忘れないために」ここは非常に重要だ。だが、前述の「遺す仕事」と「残す仕事」に集約されるだろう。一番大事なのは「遺す仕事」と「残す仕事」に対して協力を惜しまず、しっかりと人と予算と時間をつけていくことである。だから、やはり、「忘れないために」「内容が”偽善に近づいている”作品や創作」をやることは自由だが前述のとおり、数が溢れかえれば溢れかえるほど本質は消滅するだろう。この場合の「本質」とは、まず「結局忘れ去られてしまう」ということと、作品への真剣度といったところだろうか。

 

また異なる側面においては、シリアスでダイレクトな表現ではないものにもバランスよく目を向けることが大事であろう。この真意は「表現とはいったい何なのか?」という根幹に関わる。何故なら、シリアスでダイレクトな表現は事実でしかなく事実以上の何かを生み出す可能性は少ない。たとえば「今日も一日鍬を振り下ろして一日が終わったよ」という表現、また「何も変わらない日々にあくびがでらぁ~」この表現で過酷な労働に従事していることは倍増して伝わるだろう。苦しい、という言葉を用いずその苦しみを伝えることができる。こういうことって大事だと思う。音楽には言語はあるが言葉の存在は内在化している。内在化されたものを人は「感じる」このキャッチボールが人を心でつなげる。という意味だ。

 

人は楽観していたい。前向きにいこう!とよくいうが、前向きであろうと努力をしてもそれは空回りでしかない。常に前向きでなければならないという強迫観念は結局多くを崩壊させることにもつながるだろう。前向きになろうと努力するのではなく、小さくてもいいから何かうれしいことを見つけたときの幸せをかみしめる瞬間を大事にすることが大切なのではないだろうか?つらいときはつらい、それを隠すことなく「つらいんだ」といえること、そのことが大切だ。

 

と、ほんの一部だけどこんな感じです。 

 

2015/3/11 小西徹郎

 

 

「理解という世界を超える」2015/3/9

例えば、作品や表現について質問や意見を頂戴するときに、意味、解釈について求められた場合は「まだまだ未熟」だ。鑑賞者が自由な発想をもって感想を述べてくださった場合、それは「最高のほめ言葉」だ。わかりやすい、わかりにくい、という次元を常に超えていたい。何故なら、「ネコ理論」的にいえば、作品や表現の核は作家、作品にあらず、核は鑑賞者の中に生まれ、育まれるものだからだ。 2015/3/9 小西徹郎

 

 

「ネコ理論」2014/7/31

ペットショップのネコちゃんはがんばって檻の外の僕らに届こうとしている。でもネコちゃんの肉体はガラスに遮られて届かない。でもこの肉球のかわいさや仕草のかわいらしさは充分僕らに届いている。ネコちゃんはもちろん自分のかわいさを知らないし演技してるわけではない。本能と動物的感情しかない。確信犯的ではない。かわいさはネコちゃんの意識とはよそに「見てる僕らがそう感じる。」自分の良さは自身では発見しにくい。表現も作品も同じく。ネコは自分でかわいさを演技しない。人も、自分はかわいい、ということを自覚した途端に周りはかわいいと思わなくなる。そういうものだ。だから作品や表現の核は作家や作品の中にはなく、第三者、鑑賞者の中で生まれ育まれるもの。だから自分で自分を評価しない。評価は第三者に任せる。自身は「笹舟」であり、笹舟は常に河の流れの上で流されている。濁流にのまれることもある。だが、笹舟は「いらぬ自意識」という重荷をもっていないのでまた浮かび上がってひょうひょうと勝手に流れていく。そして流れ着いた先で実力を発揮すればよい。ネコがかわいい、という感覚は芸術、表現のあり方に大いに通じる。

 

 

「NY Manhattan」.2014・9・25

環境とは面白いものだ。環境によって撮る写真も変わってくる。海のキレイなところに行くと海を含めた風景を撮りたくなる。都会にいると乾いた生活感を撮りたくなる。でもね、なんか、何気ない日常がテーマのものって実はあんまり好きではなくて、骨の髄までのめりこんでいない表現については何の面白みも感じないんだ。何気ない日常をどうエキサイティングに(笑)していくか?これはクリエイトしていくことにとても似ている、いや同じだな。

 

 

 

「目の前の向こう側」2015/3/5

言葉、道具、生み出してきた人間は素晴らしい。人間は言葉で何を伝え、道具で何を作るのか?その先がとても重要だ。何故なら、言葉を使って幸せな気持ちになるような文を書くこともできれば、攻撃することも罵ることだってできるからだ。また、道具を使って生活を豊かにするものを作ったり、美しい音色を奏でる楽器を作ったりすることもできれば、人を殺すものも作れるからだ。芸術も同じく言葉や道具、知恵を使う。生まれてきた作品や表現が人に届くとき、それは作品が届くのではなく、作品や表現を通じて「その人」が伝わっているのだ、ということを肝に銘じていることが大切だ。常に、音楽の向こう側には音楽を通じて姿を変えた自分の分身が無言で雄弁に語っているのだ。

 

 

「教育」2015/3/5

例えばこういう相談。「音楽家になりたいのですがどうしたらいいでしょうか?」こういう相談を受けたとき、以前の僕だったら「それならば、これを勉強してこういう学校に行ってそこでプロの技術を磨いて・・・云々」と言っていたが、今はその逆になってしまった。「単に夢や希望ということだったらそれは目指さないほうがいいかも」と言うだろう。ビジネスモデルが崩壊しているのに変わらない構造、そこにあえぐ赤字。この状態でそこに飛び込むためには?!のノウハウを伝授するよ!なんてことを無責任に言うことはできない。もし音楽家を目指したいのなら子供の頃から学んで磨くべきかもしれない。それに、専門家を育てるということに僕はあんまりピンときていない。それだったら、幼稚園児、小学生中学生たちに「良き鑑賞者」になってもらうための教育をしたい。そのほうが確実にいい。その中で専門家やプロを目指す人が出てくればそれは副産物なのだろう。そうすれば専門学校や大学で「これがプロのワザだ!」などと当たり前のことをさぞ特別なことのように教えるということをしなくてもいい。だいたい、テキストだけですべてを得ようとする姿勢が間違っている。常に創意工夫に富んだ日常の積み重ねでなければクリエイトしたことになんてなるはずがない。それにいくら技術を磨いて高めてもそれ自体が「的」を外していれば人に届く音楽を作れるわけがない。音楽や作品、表現で一番重要なものは何ですか?これを外していては通りっこないだろうな。だから、この写真のように「多くが憧れる世界」は古びた写真のように色あせていくのだ。

 

 

「起伏のない世界への憧れ」2015/3/2

たとえば、心臓の鼓動、呼吸は安定して継続されて私達は生かされていることと同じく、全てのものは呼吸をしているし脈打っているだろう。 逆に たとえば、今吹いた風と同じ風は二度と吹かないだろう。だけど「急激な変化」は常に人為だ。僕は人だが、人為による急激な変化を作品や表現に求めていないんだなってことに気がついた。

 

 

 

「0.00000000001%」2015/2/24

最近よく言うのが、地球の人口の0.000000000000001%の中の人間関係で思い悩むよりも、まだ見ぬ、これから出会うであろう地球の人口の99.999999999999999%の人たちとの出会いを楽しみにしているほうがよっぽど精神衛生上良い。そして、良き理解者は0.000000000000001%「も」いてくれるのだから人生ありがたいことだよね。

 

「蕎麦屋理論」~内部留保は「先」にやっとく(笑)~20152/23

一番手っ取り早いのは損益分岐点が低く、効率のいい仕事をすることなのだがそうも言ってられない事情もあるだろう。

たとえば、趣味の蕎麦打ちを活かして定年退職後に蕎麦屋を始めるとしよう。蕎麦屋の開店資金に例えば5000万円必要だとして一生懸命5000万円を工面する。ところが、蕎麦屋は開店してすぐに繁盛するわけではない。認知されて経営が落ち着くまでに3年~5年はかかる。その間「まったく無収入」であっても生きていけるように事業計画の予算組みをする。これが「蕎麦屋理論」だ。ここを外してしまうと「あぁ・・・やっぱりダメだったわね・・・」と早々に諦めなくてはならなくなってしまう。また、この「蕎麦屋理論」を実践するにあたり、大切なことは組織のシンプル化だ。特に芸術をやっていく場合、ビッグビジネスは決して夢みないことだ。芸術で食うためには大きく打ち上げることではなく、小さく高単価で頻度を上げていくことでしか健全な利益体質を維持できない。だから、名刺交換会で「代表取締役社長」という肩書きを僕は信じない(笑)売上のない会社かもしれないし赤字だらけで倒産寸前の会社かもしれないからだ。一番大事なのは肩書きではなく内容。そして体質だ。社長とはボスでもありリーダーでもある。でも僕はどちらかというとリーダー的な動きをするだろうな。今実践している「蕎麦屋理論」は冒頭の~内部留保は「先」にやっとく(笑)~には反している。それは僕自身の甘さがたたったものだ。本来、内部留保は「先」に済ませておくべきであって「儲かってきたから貯め込もうぜ!」というのはちょいと違う。でも今やってる「蕎麦屋理論」は資本??を大きくする、ボトムアップするものでありそれは内部留保にある意味「似ている」。でも、株や投資をするわけではなくひたすら耐える(爆)根本に戻るが僕ら芸術で生きている者はビッグビジネスを決して信じない。ということだ。

 

「プロ?」2015/2/16

昨年、実家に戻ったとき吹奏楽の後輩さんたちの飲み会があって楽しんできました。そのときに後輩君から「小西先輩はプロなん?」とたずねられてちょっととまどいました(笑)確かに僕はお金にはうるさいけど実はあんまりプロとかアマとかの境界線は確かに自覚していないかったからです。確かにこんなに髪は長いし、仕事をしているといっても確かに定時に出勤しているわけでもなく、確かに社会のハミ出し者と言われても仕方ないかもしれないでしょう。プロ、アマというよりは、僕は「社会との接点を大事にしている」ということなんじゃないかな?と思うわけです。今、人に言えない(悪いことしてるんじゃないよ?解禁できないだけよ)仕事も水面下でやっとるわけですから、まあ一応その後輩君の言葉を借りればプロなんでしょう。で!とまどってしまった僕は、「え?プロって?たとえば?」と聞き返したら「収入がある、とか納税してるとか」と返ってきたので「あ!そうか!」と思い、「うん!少ないけど収入はあるし納税してるよ!」と(笑)ということで、明日は確定申告ですわ。「納税」よりも「NO!税」が「いい税(ぜぃ!)」なんだけどな(笑)というか、、「プロなん?」とたずねられてしまう僕自身のブランディングの甘さや認知度の低さに反省と更なる精進を決意したのは当然でありますし、常にそうです。人に自分自身を知ってもらうことはとても難しいのです。だから、武器が必要なんですね。

 

 

 

「ありがちな社会」2015/2/14

例えば、意味を持たせようとすると、或いは意味を探ろうとすると純粋さを失いがちになる。演じる側も受け取る側も「理由」を求めると途端につまらなくなってしまう。例えば、動きや音に意味を持たせようと画策する時間があれば、その時間以上に「ネコ理論」の実践をしたほうがいい。手放しで無防備で入り込んでくる音や動きには到底かなわないのだから。空間意識が前に出てくると意味が薄くなる。だが説得力のあるものになる。意味が前に出ると空間意識が薄くなる。だから説得力に欠ける。と、説明したり分析は誰でもできる。

 

 

「社会性」2015/2/12

よく、就職を放棄してしまって「やりたいことがある」という”言い訳”をしてフリーター、もしくは引きこもってしまったりする人が多いとききます。でも思います。「やりたいこと」の前に「やるべきこと」があります。「やりたいこと」を優先すると近道のように感じますが実はその近道と思えるその道端にたくさんの大切なものを落としてしまっているのです。「やるべきこと」をやっていると遠回りをしているように感じますが、大切なものを落とさず、また落としたとしても落としたことに気がつけるのです。だからやっぱりがんばって会社員になってほしいものです。そこで修行することによって得られるものは財産だと僕は思います。僕自身も会社に育ててもらったようなものです。その経験が今の仕事を支えています。

 

 

「等分すると腐敗するもの」2015/2/9

写真。こんなことを願ってはいるのだけど。でも、この写真のようになると芸術は腐敗するんだろうな。元々均等平等なんてものは存在しないし芸術家なんて常にデコボコしている。社会との接点がなさ過ぎるのもアカンし癒着もアカン。芸術とは反骨の中で生まれたり社会の不安定の中からも生まれる。過去の凄まじい状況と今を考えると確かに雲泥の差はある。ところが今、現在、そして現代、この社会は本当に「凄まじくない」のか?”ある意味”僕らは社会との接点の中で苦しんでいる。そのことは”ある意味”「凄まじい」。だとしたら「芸術」は生まれるはず。何故、「芸術」が「今」生まれないのか?それはおそらく、「21世紀の芸術」という視点がないからなのかもしれない。「前向き」という言葉があるが「前向き」とは「空(カラ)元気」のことではない。「前向き」とは「先を見つめる」ことだ。分析やロジックでは答えが出ないもののほうが「圧倒的」に多い。その圧倒的に多い何かを見つめていくことが「21世紀の芸術」を生み出すことになるのだろうなと信じている。

 

今、日本に「パンク」や「ブルース」が存在しないことも非常に不思議だ。何故存在しないのか?こんなことになっているのに。不思議だ。(音楽とかカテゴリーのことじゃないよ)

だからバランスが悪いのだろうなぁ・・・

 

「」 が多いな(笑)

 

 

 

 

「21世紀の音楽」2015/2/1

21世紀の音楽、この言葉が僕の中から消えません。僕は今、古いものが好きです。20代の頃の新しかったものは今は古いものとなっています。そして自分が生まれた60年代後半のそれ以前のものが今好きです。なので今、がっかりするものも多くあることは残念ではありますが、21世紀の音楽というものを考えたときに僕はまるで若者のような気持ちになります。エレクトロニクスは僕にとってとても大切です。それがないと成立しないものもあります。ですが、その源流になっている音楽の向こう側、つまり音楽のこちら側に人としてどんな血が流れていて、その血流は何を運び、何を育むのか?そのことが非常に重要だと考えています。機材は大事。でも、「●●じゃなきゃダメ」とかそういう考え方、見栄の張り方はNGです。いい機材を持っていてもそれが使いこなすことができなければ意味はないのです。最終的には腕にかかっているんだと思います。そしてもっと大切にしたいのは「音楽の核」つまり、音楽の向こう側です。そこにしか21世紀の音楽はないのではないだろうか?そのように思えてならないのです。

 

 

「手で触る音楽」2015/1/29

手で触る音楽をやっていたいのなら、音楽の向こう側が最も重要だ。そして、音楽の向こう側の正体がわからないことも重要だ。納得することができない、境界線がはっきりしない、そんなもやもやしたところでいいものは生まれる。

 

 

 

「階層」2015/1/25

自分が「何階にいるのか?」は窓の外を見なければわからない。雨戸を閉めていたら風の強さ、太陽の位置、光景もわからない。すると、「今、自分は”何階”にいるのか?」がわからない。地下なのか、それとも最上階なのかがわからない。登山するときに見えるのはいい景色、そして頂上だけ。どこまで登ってきたかを下をみて判断するより頂上をみて判断したほうがいいにきまってる。海をみるとき、どこに視線がいくか?やっぱり水平線だ。水平線の向こうに何があるのか?それを想像するのが楽しいからだ。

 

 

「比較される、ということ」2015/1/20

ネコ理論的にいうと、比較されてしまうということはまだまだ自身が比較されるような場所にいる、ということの表れである。比較対象にならないところに行く、もしくは比較される(する)必然性のないものを持っていることが大切だ。もちろんネコ理論的にだ。また逆に簡単に比較してしまう癖のある人はその癖自体がしょうもなくダサい価値観?でしかないので聞き流すことが大事。うーん・・・これは例えばカテゴリー、ジャンルとかそういうことではなく、です。芸術は比較だ。と仰る方もいる。だがそれは芸術になる手前のところでしかなく本質ではない。もっとわかりやすくいうと、サッチモとマイルスを比較する人はいないのと同じく、また、ストラヴィンスキーとドビュッシーを比較する人もいない、というのと同じ意味。

 

だから、音楽で比較されてしまうのはそれは僕自身の力がないからなのだけど、容姿について、僕も知らない、住む世界もまったく異なる他の誰かと比較されてもそれはまったく無意味だし人の本質すら突くこともできない。不毛だな。というか土俵がまったく異なるんだから比較じゃないか(笑)

 

 

「バッテリー駆動」2015/1/17

バッテリーで動けるレベルの仕事の仕方じゃ…アカンよねぇ…フルパワーだけど高効率だよな。だから仕事の流れが停滞してるとかなりストレスたまる…流れの停滞は血液が流れないのと同じ。心臓の脈動のペースで仕事が進むと良いな。

 

 

「結局、このドーナッツのように。。」2015/1/10

結局はマーケットに左右されないものを。が大切なのかなと。同じカテゴリーであってもマーケットの中にいても変わることなくよいままで存続すること、つまりマーケットに左右されないということ。なのかな。マーケットにないものを作る努力は大切。だが、マーケットになくて新しいものだとしても奇を衒ったものは重みがない。芸術も音楽もドーナッツもみんな同じだ。あと、ブランディングは当然大切なのだけどブランディングできていれば大丈夫、という時代は終わったな。いや、そんな”時代”なんてもんはもともとないし、単に通過点でしかないんだということ。「豆腐理論」の実践は時間と忍耐力が大事。豆腐理論を支えるのは蕎麦屋理論、ということだ。マーケットの話はもっと具体的に言えば、巨大マネーに一喜一憂しないということ。それが純喫茶理論や低呼吸理論に結びついていく。下手なビジネスセミナーにワクワクするよりも、自分自身で観察し自分自身で答えを導き出したほうがいい。だから僕がセミナー受けることは決してない。

 

 

 

「勘違いするな」2014/12/31

いつも思うのだけど、なかなか視野が狭くなることも・・・今自分がいる場所や近辺だけを見ているとわからないけれど、もっと広く一般に目を向けていくとまだまだ足りないことに気が付く。昔、とにかく何でもいいから音楽をやって小銭が稼げればいい、と貪欲にやりながらも、その音楽の仕事を自分の実績とすることに躊躇していた。だから「仕事」という言葉にウソをつくのは嫌だ、そう思う。やっぱり自信をもって「やった!」といえるものをしっかりと打ち出していきたい。たとえば、ライブをやってお金をいただいた、からプロではない、ということだと。必要とされ続けていかないと生き残れない(当然だ)だからそこにはウソやまやかしを絶対に入れたくないな。勘違いした人にはなりたくない。

 

 

「目に見えない力」2014/12/14

人は自分自身の努力や積み重ねだけではどうにもならないことのほうが多い。どんなに自分のやりたいことに向って努力を積み重ねてもそれがまったくうんともすんともいわない。それはたぶん自分自身の進む方向がちょっとズレているからかもしれない。全てが自分の思うようにはならない。それはきっと自分の力ではどうにもならないもっと大きな何かが人一人一人の人生には働いているからなのだろう。よく、たとえで言うのだけど、自分という笹舟を大きな流れの中に置いてみる。その中で意図した方向とは異なれど進んでいった先が実は一番ベストなのではないか?だから、自分で自分を評価しないし評価は第三者に任せる。自分のやりたいことを語り過ぎない。そのうえで評価をいただけることはとてもうれしく感謝すべきことであり、それが仕事につながっていくことで生きていける。自分を表に出さない。表に出すのはやっていること、できることをしっかり出していけばそれで充分。あとは流されていきながら天命を待つのみ。この考えに至ったのは、元々作曲家になりたい、という願望、音楽の職人になりたい、という願望がなかなか思うようにいかない、というところ、そして演奏がクローズアップされること、ここで気がついた。やりたいことと進むべき方向性は異なることに気がついた。そのことをきっかけに自分自身を川に浮かべることにした。楽な生き方、と思う人も多いけれど、これって相当の覚悟がいる。覚悟が持てないのならおすすめできない生き方かも。僕は決して優秀な演奏家ではないし、決して優れた作曲家ではない。能力は人並み以下だと思う。自分ではそう思っている。だから学んでいるんだろうね。来年早々にいろいろ仕掛けていくため企画書とマーケティングを少し。この場合の仕掛けは笹舟を水のあるところに押してあげる、といったところだろうか。ただ、マーケティングといっても、単にマーケティングではつまらない。そこにはやはり意思が非常に重要だ。来年の目標は「単価と頻度を上げる」こと。しかも、、「ネコ理論」的に。

 

 

 

「鑑賞時間」2014/12/6

音楽なり美術なり舞台なり、鑑賞時間を有意義にするためには、感情のボキャブラリーを多く持つといいかもしれない。すると楽しめるだろうなぁ。あ!今いいこと思いついた! いい曲を「よい」からどんどん膨らませていく。それにし ても…ずーっと空気だけが残っているこの間のトロッタの会で聴いた、伊福部昭 「摩周湖」この音楽はかなりヤバい…すごい曲だ…

 

 

 

「ヤバイアーティスト」2014/12/6

いろいろ見てきて、あ、こいつやべぇな・・・と思うアーティストに出会えるのはとてもうれしく貴重なことだ。そんな中以前から目をつけているアーティストがいて、その人は音楽家なのだけどもう既に音楽家という枠はとっくに超えていている。だけど、ずっと音楽にこだわり続けている。「ネコ理論」に従うと、既に音楽を超えている、ということを自身が認識していない、だからこそすごいんだろうな。つまり、その人自身がこだわっているところは僕ら第三者からするとまったく問題ではない、ということ。もし、その人の音楽が完成されてしまったとき、全てが揃ってしまう。そうなったとき、凡庸になるか急激に更に凄味を増すか?それも「ネコ理論」に従えば”誰にもわからない” と出るだろう。すべてが揃っていないから人は面白い。揃ってしまえば殆どが凡庸になってしまう。これは基本だ。

 

 

「矛盾」2014/12/4

「淡白で深みのある甘さ」という表現。人の感性は矛盾だらけだ。その矛盾が素晴らしい。音楽のストーリーは時間と音色によって語られるが味のストーリーは味覚の層によって語られるのかもしれない。時間としては儚すぎる味覚。だから多くの層があるんだろうな、味覚は。昔好きだった女の子に街でばったり出会ったり、同窓会などで昔憧れていた女子に会う、そんなドキドキを味覚にすると「刺激的酸味、後、オリゴ糖味+旨みのある塩バター味」なのだろうか?(笑)どうやら女子ドキドキの味は時間に支配されているようだ(笑)

 

 

「不毛な知識」2014/11/27

美意識がついていかない知識は不毛だ。何だか勿体無い。だけど美意識を越えたところに人がある。だけど人があるから美意識という基準はあるし、その基準は人や環境に委ねられる。多様だ。

 

 

「人間まみれ」2014/11/24

声のスコアを考えているとあらゆる情報をガチガチに入れ込みたくなってきて結局つまらなくなってしまった。ロジック坊やにはなりたくないものだ。声の表現は行間ですればよい、僕がほしいのは記譜やシステムではなく実際の音の中にあり、音楽を越えたところにある何かなのだからどんなにガチガチのギチギチのスコアを書いたり、システムを構築したところで高まるのは再現性(クオリティ)だけであって伝えたい世界は伝わらない、そんなもんだ。だから、空間、音楽のためのライブのための、或いは音源のための詩、テキストを書く。それでよかったのだな。最近は、空間に飽き足らず、目に見えないものへの興味が・・・・・・・・ でも、スピリチュアル系ではないんです。それは普段の発言をみていればきいていればおわかりかと。うーん・・・説明が難しいけど・・・例えば、上手いバンドなんだけど何か惹かれない。下手くそなバンドなのにすんげー魅力的、とか。下手なのに惹かれる(あくまで一例)ってなんか持ってるってことでしょ。そこを大事にしたいなーと。バンドやアーティストは見た、聴いた一瞬でイケてるかイケてないかがはっきりする。ヤバイやつはイケてるしヤバくないやつはイケてない。エントランスバンドやデヴェンドラ・バンハートは最高にヤバイ!!アーティストは「人間まみれの人間の塊」になるか「人間離れ」するか、なのかなと。

 

 

「要素の範囲」2014/11/23

サウンドスケープを伴奏のように音楽をやってきているのだけど、声を取り入れたくなった。だけど、意味のある言葉ではなく、僕の音楽の一部としての声、言葉。意味は必要としない。意味があると意味に流されちゃうのはつまらない。だから朗読じゃない、音楽の1要素としての声や言葉、それを読み手に完全に任せるんじゃなくて時間軸、つまり、コンポジションしていく。そうすることによってやりたい世界にもっと近づくんじゃないかな。いつもはセリフや文章の意味に自分の音楽が入り込もうとしているんだけどその反対でそれをこっちである程度制御する。時間を絶対数としてやるとそこに囚われるから相対的に。そういう記譜?で声のスコアを作る。もっと人間くさくなるような音楽、自然になりたい、けど自然になりきれない人間の音楽。もちろんやり方は既出のものだけど、いつも思ってるけれど新しさは必要ない、いや囚われなくていい。出てくるものがいい空気であればなんでもいい。この間の芝居の稽古やエミ語とのコラボでちょっとヒントを得た。だからテキストは僕が書く。

 

 

 

「何故結果にこだわるのか?」2014/11/20

何故なら僕には学歴(音楽としての)がないから。示すものは結果しかないから。新入社員のときの社長の言葉、「真面目に一生懸命やってる、いい人、それは当たり前のことだ。結果を出せるか否か?ここが重要だ」この社長の言葉も実は根っこにある。会社に入って学んだことはとても多いし大きい。もし僕が「いや!音楽をやりたいから会社辞める!」と20代で会社辞めていたらたぶん人生無茶苦茶だっただろうな。準備が出来ていないのに飛び出すのは無謀だ。才能があれば別だが。学歴にこだわる、結果にこだわる、実は同じ土俵だ。結果にこだわる必要がなくなれば学歴はどうでもよくなる、ということだろう。学歴や派閥にこだわってる人は結果を出せていない人だろうし、結果にこだわるということはまだまだ社会的認知が乏しいということになる。だから同じ土俵なのだ。ただ、がんばるけれど「無理」はしない。どんなに無理をしても無理をしている間は何もついてこない。そういうものだ。いったい僕はいつまで結果を出し続けることができるのかな?それは神様しかしらない。

 

 

「現実はあとからついてこいや!」2014/11/20

音楽にしても何にしても視野は広く持っていたい。そして理想を追求していく。元々僕らは理想に向っている。だから、「現実はあとから勝手について来いや!」といったところだろうか。

 

 

「笹舟」2014/11/19

思えばいろいろやってるのね~と思う。居場所は常に求めず引きのあるところに流れ着き一生懸命やる。僕は大河に浮かんだ笹舟だ。そういう生き方だしベストである。大事なのは引きがある、必要とされるということ。そのために切磋琢磨する。だから僕は自分自身を説明的主張をしない し、自分で自分を評価もしない。必要とされるならば生きていける、必要とされないなら生きていけない、ただそれだけのこと。物事はシンプル。

 

 

 

「何もしない時間」2014/11/15

わからないことだらけだと、色々と考えはじめる。しぶとく考える。それが面白い! と、横浜までの遠い道のりをそんなふうに過ごす。豊かな時間だ。何もしない時間、身体が動いていないとき、人の頭はフル回転する。「何もしない時間」は最もクリエイティブだ。

 

 

「わかりにくさを楽しむ」2014/11/15

わかりにくさの面白さを楽しむワークショップを思いついた。わからないからつまらない、という背景には「理解しなくてはならない」という呪縛がある。世の中、理解しなくてはならないことだらけ。だからたまにはわかりにくい、わからないことを楽しむ、そんな時間も必要だ。表現物はとっととさっさと自分の手(作り手)から離していき人に委ねていく。評価も解釈も自身からとっととさっさと切り離す。それをやんないとわかりにくさを楽しむ素地がなくなる。どこからでもわかりにくさを楽しむ角度はあるんだよ~っていうワークショップ。

 

追記

 

すれば、現代音楽や現代アートもどんどん面白くなる。コンセプトは大切だが、ロジックのみに終始しているものなんてクソくらえ!!と思っている。

 

よくある、理解するための、ではなく、わからないことを楽しむ、ということ。

 

 

 

「目からウロコ」2014/11/15

目からウロコがとれた。目の前は思い切り視野が広がる。だけど、目からウロコが取れた時点ではもう既に遅く、何かをどうすることもできない。目からウロコが取れる以前からそのことを身体が既に「覚えている」ということが大事だ。そうすると、「目からウロコ」は「実感」と「納得」にとって変わるはずだ。

視覚と聴覚、体外では別次元のものとして存在せざるを得ないものを、いつも常に結びつけているか?そのことに思考をつなげていくことが大切だ。すると、例えば、音しかきこえていなかったのが、「音楽がきこえるように」なってくる。

 

 

「場所がアーティストを探す文化」2014/11/14

横浜はおしゃれなイメージがあるが、僕はあんまりそう感じない。横浜は横浜土着の文化がある、ということなのだと思う。この写真の右側にはzaimという古い建物を利用したアートスペースがあった。ここではいいものもよくないものもたくさんの展示とイベントがあった。僕は人が好きだし義理人情、礼儀、仁義を重んじるのだけど、仲良し系のアートイベントがあまり好きじゃない。また、古い建物利用はとてもいいことだが、アーティストが場所を探すんじゃなくて場所がアーティスト探すようにならないと結局育たないよね。それが今のこの状態なのだ。

 

 

「ポンプ 生の継続」2014/11/4

いつも満足せずに、いつも何か課題を持ちながら、でもサクサクできるように鍛えて、新しいことに囚われずに、でも何かを生み出していきます。自分にできることを、可能性を高めたい。だけど、どこに自分を置くのか?によって範囲はとてつもなく広がり大きくなる。そのときに落胆することもしばしば。"すごく"ならないと生き残れないことを実感する。そんなときは空元気でもいいから先を見る。何があっても自分の置き場所はとてつもない広範囲に広がるところにする。無限の風船に息を送り続ける。

 

 

「自然との対峙」2014/11/4

人は大地に海に空になれない。大地や海や空は人のように恋愛することができない。力の差はあろうとも人も自然界のものも対等である。

 

 

「無駄に苦しむな」2014/11/4

そうか、アウェイな状況でプレゼンしなきゃならない環境にいるうちはまったくダメ、なのと同じく、説明が上手くできる程度、説明しなきゃならないんじゃお話しにならんってことなんね~

 

 

「無気力な手抜き(どこにでもある風景へのアンチテーゼ)」2014/11/4

おかしくなっている要因はなんだろう?と思い巡らせていると引っ掛かるものが見つかった。「自然がつくった芸術」これってどうなんだろ?芸術は人間にしか作れない、自然は人としての身体を持たない、人としての意識も人格も持たない。だから自然は芸術を作れない。自然が生み出すのは人知を超える美だったりする。美は美であり芸術ではない。自然美が人の中に作用するから人の手で芸術が生まれる。それを混同するからこういうことになる。青山あたりで街の写真を撮るとどこをどう切り取っても「絵」になる。それは何故か?答えはシンプル。街並みや建物はもう既に人の手によってデザインされているものだからだ。だから誰が撮影してもクールに撮れる。何故エフェクターで音をぐにゃぐにゃさせないのか?演奏でやったほうが説得力があるからだ。何故、路地裏の壁を撮影するのか?人の積み重ねた時間と営みが無造作に放置されている、そこに第3者の人として意識的にあぶり出したいからだ。

でもそれは芸術ではない。僕にとってはソースでしかない。

自然美は借り物でしかない、そのことが理解されないからつまらないものが蔓延るのだろうな。また逆のものもある。それもつまらない。対極にあるものがちょうど良いバランスのものが極端に少ないことがダメな要因なんじゃないかなと思うのだ。

 

 

「インテリジェンスと人臭さ」2014/10/31

たぶん僕は音楽にインテリジェンスと人くささを混ぜたいんだと思う。決して奇をてらうわけではなくて。矛盾したものを同居させたいんだよ、きっと。

 

 

「ちび黒サンボ」2014/10/29

よくよく考えてみたら光による線は膨大な時間を動かす力が必要だ。スーパーマンが地球を瞬間にぐるぐる回るくらいの時間力が必要だ。もしくは目を衰えさせるか。これって残響も同じことが言えるのかな。硬質な壁面、その容積が大きくないと音は線になることができない。そりゃトレースソフトやリバーブを使えば擬似的には可能だけど。そう考えると花火の打ち上げの音ってすごいな。よく、カメラを小刻みに揺らしながら撮影するのだけど、その様子をみた通りすがりの人は奇怪なものを見るような眼でみる。僕は光や音をちびくろさんぼの虎がバターになっちゃうようにしたいだけなのかもしれないなぁ~

 

 

「とどめを刺された」2014/10/27

昔、活動を始めたときに僕はとにかく年齢も年齢だからとても焦っていて、どうにかして音楽で進まないと!と思ってやっていました。そんな中、とある結構著名な方に取り入ろうと仕掛けていったわけですが、当然、会社辞めたばかりで「何もない」状態でした。そのとき、その著名な方に言われたのは

「君に何ができるか?は興味がない、君が今まで何をやってきたか?(実績)そこにしか興味がない」

これには僕も当時は相当ショック(笑)で、とどめ刺されたと思いました。何?んじゃあ40手前で会社辞めてこの道に行くのは無理なんかいっ!俺がバカなんかい!(アホですがww)ざけんな!!と思ったものです。でも、今なら、僕もこの方と同じことを言うんだろうな。どんなに媚を売ってもダメ。媚を売れば価値は下がるんです。突っ張ったもん勝ち、なのではないのかなと。もちろん謙虚にです。肩肘を張っても突っ張ったことにならないです。ネコが逆毛で威嚇しているレベルでしかないです。あと、これは何日か前に誰かに言ったかな?自分を変えたい、とか思っている人はアーティストになれない。自分を変えるために海外に行く、これもまったく無意味です。自分を変えるのではなく自分を好きになることのほうが最重要なんです。あと、僕もですし多くの方はそうだと思うのですが、音楽にしろ何にしろ、僕は「自己表現」をしているわけではありません。お客様にわざわざご足労いただいてお金までいただいて「自己表現」をみせられた日にゃーお客様はお怒りでしょう。だから僕は人前では「自己表現」をしませんし、逆にお客様に媚びるための作品を出すこともしません。お客様の心の中に僕を通じて音楽、アートが発生していくために全力を尽くす、それだけです。

 

 

 

「世界と社会は異なる」「良くならない社会を前提に生きていくこと」2014/10/25

世界はゆるやかだが社会はそうじゃない。社会の意識は日本だけでなく地球上全体がよくない。よく日本は日本は・・・などと言うが、日本だけでなく世界的に良くない。だからそれを前提に生きていくための術が必要かな。芸術家が苦しいのは社会が悪い。だけど悪い社会を前提にしてい ない芸術家もよくない。毎年ものすごい数の音楽大学芸術大学の卒業生が出る。そんな中で飽和してしまっている状況では社会がよくないという問題ではないのかもしれない。数が増えれば自然淘汰される。どうすれば淘汰されずにすむか?結局は生活基盤を変化させていきながらしっかりと芸術で食っていくしかない。それができなくなったときに初めて、淘汰されたんだな、と思えばいい。

 

 

 

「無意識」2014/10/22

たぶん音楽も非音楽も本来は無意識の中にしか良さや面白さを発見できないのかもな。だから音楽と非音楽のはざまは無意識の中の意識ということだ。無意識の中の意識とは時間の積み重ねの中に根付いたものだ。例えば、毎日豚カツとケーキしか食べていなければ身体は"それなり"の反応を示す、ということだ。食事のバランスの良さが快適な生活につながるのと同じく、音楽やアートもそういうことなんだよね。だから無理やりこじつけてしまうと一番いいのは音楽と非音楽のはざまに常にいることがいい、と結び付けたい(笑)でも僕は肉食w

 

 

 

「暴れる」2014/10/20

外に向いてはみ出して暴れていくことも面白いけれど、内側に向って暴れていくことも面白い。バランスが大事なんだけど・・・って、バランスって「調和」することじゃないことももちろんわかっている。のだけどぉ・・・

 

 

 

「見上げる」2014/10/19

人は空を見上げる、誰もが見上げる。大切なのは「どこから見上げるのか?」だと思う。

 

 

 

「空っぽの雑念」2014/10/19

僕にはシャーマニックな感覚はあまりなく鈍感だ。不吉なものは少しは察知できるけど。まあそれはいいとして(笑)音楽をしているときは僕の中は雑念いっぱいで「空っぽ」だ。出した音が聴き手に届いてはじめて聴き手の中で音楽は発生する。(=^ェ^=)猫がかわいいのとか赤ちゃんがかわいいのは猫や赤ちゃんの意識にはないでしょ?かわいいと第3者が感じてかわいさは増していく。それと同じ♪赤ちゃんや猫が自身はかわいいと意識した途端魅力は半減する。男女もそうじゃん♪

 

 

「音楽はコピーできても人や時間はコピーできない」2014/10/18

とてもわかりやすい言い方をすればこうだ。どんなに美しくメロディを奏でることができてもそのメロディにこもった人の軌跡やおさめられた時間は伝えることが非常に難しい。練習でメロディをできるだけ多く吹くのだけど、その音楽が作られた時代背景や作家、その音楽のエピソードや伝えたいメッセージを知ると、音楽的に良く、美しい演奏をしていることで終わりではないことを思い知らされる。演奏している人の中身を音にさらけ出すことだって大変なことなのに演奏する音楽が持つ積み重ねてきた時間を演奏にのせていくのは至難の業だ。自分が出している音のダイナミクスを人の心は最初から超越しているのだから。心を超えていく音、音楽ってなんだ?ってことになる。音楽的美意識、これだって最初からあまり意味を持たないんじゃないだろうか。こういう体験は音楽以外の分野の方々と仕事をすると常にそれがある。人は音楽を求めているだけでなく、音楽の向こう側を見たいと思っている。

 

 

 

「矛盾最高!」2014/10/18

凛とたたずみながらも思い切り暴れてる音楽をやりたいな。ギャップは大事。矛盾は常にあるもの。その矛盾がいい音、音楽を生み出す。

 

 

「音楽構造から離れている理由」2014/10/12

 単純にいえば音楽構造は音楽の構造だからだ。ただ音楽構造、いや、音楽という眼は染み着いている。音楽は下着でありシャツである。音楽という眼から他分野、多分野をウォッチしていくと音楽構造ではありえない「法則」が見えてくる。当然それはロジックではない。構造、法則はロジックからは生まれない。今日のライブは音楽構造、つまり音楽と非音楽とのはざまを漂うのだが、非音楽というものが構造を発生させるギリギリのところに音を置いてみたいと思う。今日は六本木でも西麻布だから日比谷線は前車両が良いかな。

 

 

「闘うことと争うこと」2014/10/

闘うことと争うことはやっぱりちょっとニュアンスとして異なるような気がする。完全に私見でしかないのだけど。 闘いは常に自分の中にあり、争いは他者を巻き込んでいる、そんな”感じ”だ。闘いも争いも「どの場所、どの規模」によって人の視野を左右するだろう。誰かの権利を守るために矢面に立つ。そんなことをしていたら当然視野が狭くなるだろう。そういう意味でも今までは闘いや争いの場 所が非常に狭いところでものすごくつまらないことに尽力していたと思う。自身のテーマでもある、「分野の交差」ここをもっと深く考えていくと視野は広がる、そして視野が広がれば己の力のなさが見えてくるから足りないものを補おうと学ぶ。知識が教養となり、広がった視野に追いつ いてきたとき人生は更に面白くなっていくのだろうな。

 

 

 

「前向きはほんとに前向き?」2014/10/2

偽善的な音楽やアートはあまり好きじゃない。みんな笑顔でいたい、だけどいつも笑顔で前向きだとちょっと疲れる。だからたまにはネガティブでもいいと思う。ネガティブもポジティブもいいバランスで生きることが大切なんじゃないかな。長所は最大限に活かし、短所はテキトーにお付き合いをする。それが自然体なんじゃないかな。確かに偽善もなくてはならないものなんだけど、僕は偽善がベースになった音楽やアートはどうしても好きになれない。手触りは柔らかくても尖がったもの、手触りは痛いのだけど心のソコからやさしいもの、それがいい。何故なら手触りを手がかりに入り込んでいって根っこを発見することがうれしいからだ。音楽を超えるとは音楽の向こう側をみることだし、絵画を越えるとは描かれた画布の先をみることだと僕は思うのだけど。

 

 

 

「物足りなさの美学・簡素の美学」2014/10/2

如何に音を出さずに自身の演奏や音楽を印象づけるか?ということが僕にとっては大切だ。例えば、極端なことを言えば、10分のトラックの中で1分しか演奏していないのに印象に残って忘れられない、ということだ。

すみだトリフォニーでの本番ゲネのとき、楽屋でソファに寝転んでたとき聴こえてきた尺八の音、聴こえた瞬間に僕は飛び起きて慌てて舞台袖に走った。その尺八は坂田誠山先生だった。瞬間に心を奪われる音楽、そこを目指したい。音楽や音を画布におさめる、視覚を音とすることは時間軸を超えることだから瞬間に心奪われる音、音楽はそのことに限りなく近いのだとわかった。

 

 

 

「あがくともがく」2014/9/29

"あがく"と"もがく" 単にイメージでしかないが、"あがく"は目的やビジョンに近づける感じがするけど、"もがく"は苦しくてビジョンが見えない、そんな感じがします。だから、あがくけど、もがかないようにしていこう!

 

 

「皮肉」2014/9/28

"どこにでもある風景"を"どこにでもない"、見方をしていたいものだ。(笑)

 

 

 

「エゴと囚われ」2014/9/23

僕にとって居場所や形はそこまで大切ではなくて、それよりも、形が鑑賞者の中に内在化していくことのほうが大切だ。ただでさえ作品はエゴなのだから。だから作品を形から手を離して泳がせることがいいのだろうな。すると、創作の段階での下手な囚われは消えていく。自分が自分でないとしてもそこには落ち着きがある。そのほうがいい。

また、何かをやる、ということはそのスタンダードとなるものが大切だ。スタンダードというよりかはベースとなるもの、いや、習慣といったほうがいいかも。

あと、最近思うのは、天才ってサクっとできてしまうけど、でも、すごく努力をして出来なかったことが出来るようになるってやっぱり素晴らしいことだと思う。自分の限界を超えていくのってすごいことなんだよね。だから人と比較しても始まらないし、僕的にいえば人と比べるんじゃなくて自分自身の主張とかそんなんよりも自分を川に浮かべてみてどうなっていくか?ってことだから比較したり意固地になることはあんまり意味がないなあって思うのです。

 

 

 

「発想の転換」2014/9/22

そうか、「出したいもの」を大事にしない、という大事に仕方、なんだろうな。がっちり串刺ししていこうと思わなくてもいい。糸でつながっていればいい。がっちり手をつないでいると自由度はなくなる。だから一度、手を離してみるといいんだろうね。

 

 

 

「風と摩擦」2014/9/19

風は壁を察知すると摩擦を起こしながら方向を変える。風は行き場を失うとそこに留まる。摩擦はいい。いい摩擦はいい音を生む。僕は風が摩擦を失う瞬間が一番好きだ。自宅のモニターでwavに落とす前の音源をでかい音で流しているとスピーカーの振動の風が顔を撫でる。モニタースピーカーは当然部屋の壁に密着させず可能な限り振動を壁に伝えないようにしている。その中で腰のある低音を聴いていると心地いい。音楽は要素が多すぎると豊かさを失いがち。これ、デザインもそうなんだろうな。満足しないくらいがいい。そのほうが創意工夫の幅が広がる。

 

 

 

「言葉の跡 言葉の焼け跡」2014/9/18

"意味"は"感情"を超えることができない。"手触り"は"感情"を代弁することができる。

たぶん、僕の音楽は書のような思い、のようなものなのかもしれない。

 

 

 

「希少」2014/9/7

”多数”で志がないよりも、”少数”で志があるほうがいい。いいものは常に”希少”だ。

 

 

 

「音楽撮影」2014/9/7

写真を撮るとき、歩いていると細かいことに気がつく。散歩は詩作に似ている。

写真を撮るときに、どうやっと撮ろうか?ではなく、

そこから言葉を捜していくと自ずとシャッターは押せる。って、僕は写真、ヘタクソだけど・・・ 

音を奏でるとき、言葉をいつも探している。みんなそうだと思うけど。。

 

 

 

「究極の分類?」2014/9/5

たとえば、究極の明るさは究極の暗さに直結している。だからそこには・・うーん・・・何だろう?・・・”分類なんてバカげてる”くらいの無風の空気にあふれている。つまり、手放しで素晴らしい。居場所を作らないってこういうことなんだなと。居場所があると、たとえばその音楽を耳にした瞬間に分類できてしまう。また、「分類されたくない!」って意識が働くと、その音楽は居場所、つまり分類されちゃう場所を作ってしまう。そしてそういうものに限って素直じゃないものがほとんど!そしてそしてまた不思議なことになんていえばいいんだろう?・・・「俺は私は違うんだー!」という帯域が色濃い。そこが見えてしまうと説得力はほぼ0%になってしまう。人間、意識があると大変だ。自由にならないからねぇ・・・自由なんてものは意識下にはないもんなのかもしれないね。唯一、自由?に近づくには、何も考えないことかもしれない。力があれば勝手に引き出されていく、そういうものだ。てか、分類とか自由とかはあんまり全然気にしてなくて、「一発で心奪われるか、否か?」これが最重要。

 

 

「居場所」2014/8/25

"居場所"は常に作らない、いや、作れないのかもね。群れることもしない、いや、群れることができないのかもね。だけど、人はひとりでは生きていけない。だから理解者は必要だし、理解者はとてもかけがえのない存在だと思います。また、同じ人間であっても全く話が通じない人もいる。そんなときはとても疎外感を感じるし生きづらさを感じるし、息が詰まる。また、逆に僕自身が他者にそう感じさせることもあるだろう。人が"潤滑"に生きていくためにはある程度の"冠言葉"は必要だが、それを使いながらも、本質だけは常にブレないことが大切だ。

 

 

 

「時間稼ぎの時間」2014/8/4

人はプロセスを大切にする。ところが、”プロセス”を大切にしすぎるあまり、核心に届かないことが本当に多い。戦争をすれば人が死ぬ。人の死は悲しみと憎しみしか生まない。原発が事故をおこせば取り返しのつかないことになる。(なった)ここに「議論」というもしかしたら核心を曇らせることになりかねない無駄な”プロセス”が生じることをさっき目撃した。だから深刻な問題であればあるほど、シンプルに捉えていかなくては核心に迫ることはできない。多くは「議論」という名の”無駄なプロセス”の中でなあなあになりながら核心を霧の中に隠してしまおうとしているのではないだろうか?とも思える。これ、会社でも同じだ。「何とか今日の会議を乗り切れば!」としながらも、いくら「今日の会議」を乗り切ったところで販売成績が悪ければ明日は来ない。目の前にある問題は目の前に解決方法がありそれをやるかやらないか?だけである。物事はシンプルだ。

 

 

 

”無駄なプロセス”は無駄な時間しか生まない。そして、意味のあるプロセスが有益な結果をもたらす時間を生むとも限らない。つまり、時間とは無常であり容赦ない。そして命とは時間である。

 

 

「手抜きすればハリボテ」2014/8/5

何気なく切り取って、到達までをすっ飛ばして昇華しきれていないものや、コシがなくて羅列のような浮遊感があるものは好みじゃあない。かといって仰々しく作ることに依存しすぎるものも好みじゃあない。そのまったく端っこか或いはど真ん中がいい。こうして「位置」に喩えると、途端に「場所」を探し始める、そうじゃない。

 

 

「チューニング」「調律」2014/7/29

レッスンのときにいつも言うこと、それは「チューニングは無意味」、だ。合奏前にチューニングをする。音を聞きながら数十秒音を出して合わなければ合うまでやる。主管を2mm3mm動かす、でも合わない。当然だと思う。何故なら管楽器はピアノやギター、打楽器などのように「調律」がすべての楽器ではないからだ。一度吹きなおせば音程は変わる。主管(チューニングスライド)の問題ではないからだ。すべては身体と耳と楽器の三要素がつながって初めて音程が揃う、つまり音が増幅され豊かになるのだ。そして、音を出して数十秒かかって音を合わせることができても意味がない。何故ならテンポ120の16分音符、”一音の時間”は”数十秒”ではないからだ。”瞬間”である。だから所謂合奏前のチューニングはまったく無意味なのである。(なかなか合わない人を待っているのが苦痛・・・)

もし、音を合わせるトレーニングをしたいのならば、基本練習のロングトーンの時間を使うべきだ。ただ!音を合わせることに特化したロングトーンはロングトーンではないので(目的が少々ズレる)そこは注意が必要。

また、パート練習のときに自分のパートはハーモニーのどの役割を担っているのか?を把握することも大切。2nd 3rd 4thそれぞれのパートは一音毎に役割の異なる音を出している。4thだから常に根音ではないし2ndはいつも第3音ではないのだ。だから平均律だけでハーモニー作りをしても豊かに響くハーモニーは生まれない。ドミソのミはやや低めでなければ合わない。ハーモニーの役割が一音毎に異なるということは各パートの音量バランスも一音毎に異なる。だからお互いの音を聞くことが大事。(相対)

また、逆にコンチェルトとかソロをするときにはほんの少し音程を上げて演奏するとキラキラしたサウンドに聴こえるし、優雅で気品があるように聴こえる。

 

 

 

「固定層からの脱出」2-14/7/27

既視感、既聴感の有無、というところから抜け出ると作品を通じて見えてくるものが変わってくる。楽器は、例えばトランペットならば唇の振動で音を作るのではなく、楽器と身体の共振があっていい音になる。それと同じように、いい作品は作品と作家が共振しているということが見えてくる。作家と作品の共振が感じられるものに既視感、既聴感はないことに気付く。また、既視感や既聴感の有無というものがそんなには問題ではないことにも気付く。作品の核とは作品にある、というよりは作家にあるのだろうし、作品は公開した時点で核は受取手に移る、何故なら作品の核はそれぞれの受取手の中で常に新たに誕生しているからだ。そういうものなのだ。作品の核があるか?=作品と作家の共振があるか?=いい作品か?

 

 

 

「あまのじゃくなのよ」2014/7/25

自由を謳歌できるときに不自由を望み、不自由なときに自由を望む。だが、自由なる者は恒に自由を求める。いつも根幹を見つめていればブレないが、根幹を見つめるに至るまでに壁が多すぎる。

 

 

 

「ミニマル議論再び」2014/7/17

ミニマリスティックなモノってクールでおしゃれに見える。だけど思想はとても重たい。例えばこの作品(写真)にライトでおしゃれなサウンドなんて僕にはつけることはできない。重たすぎて(笑)ある意味、ミニマルアートってのはプロセス重視のアートなのかもね。だからミニマルミュージックを演奏するのはものすごく苦痛だ。それはミニマルアート自体がある意味自然体から逆行しているからだ。

でも、打ち込んじゃえば誰でもミニマルミュージックはできる。カンタン!(爆)でも、それがミニマルミュージックといえるかどうか?それは重たくてしんどい思想があるか、ないか?なのかな。

 

 

 

「音楽を越えていく」2-14/6/26

僕はいつも、「音楽」が音楽を超えていくきっかけを探していてそのために平面だったり立体だったり身体だったり香り、言葉、とアンテナを張り巡らせているのだが、ここのところそれが見つからない。ある絵画、あるデザインを観ながら、いや、待てよ?何でこんなにブレてるんだ?ってことは?とか、、見つけていくのは容易ではないのだ。

昨年のトーキョーワンダーサイトでBCDの展示とパフォーマンスを行ったのだけど、それまではものすごくロジックにこだわってて、BCDから音をどうやって完全に抽出すべきか?というところにこだわってて実際にやってみたら「説明できないことは自然体の中でしか生れない」ことに気がついて力が抜けた。BCDはよくよくみると、特に映像化すると、まるでひとつの輪廻する宇宙、生命体のように見える。音もそうだ。だからアートには「翻訳」は必要ないことにも気がついた。少なくとも自分がやっていることについては。力が抜けたのはいいのだが・・・見つからない。 

 

 

 

「文化はみんなのもの」2014/6/23

”アーティスト”というものは文化を生み出せないし文化を牽引するリーダーになることもできない。何故なら文化は受取手が自然発生させていくものだからだ。だからアーティストはどんどん出していくものの質を高めていかないと文化はどんどんダメになる。それは目に見える速さで、そして目に見えないところでどんどん進行していく。これはアートに限らずすべてにいえることだろう。

 

 

 

2014・6・22

作品や表現に魂を込めようとするのではなく、直接第三者に届けていくと、作品や表現は本当に自由になれる。無理やり語ろうとする必要はないのだ。

 

 

 

「音」2014/6/23

音、高音はテクスチュアが目に見えるようにざらついている。だから耳につく。低音は音がテクスチュアを感じる前に振動の圧として身体が捉える。音は耳だけで聴いているのではなく全身で「きいて」いるのだ。だから音楽をひとつの知覚として捉えるとき、耳に触るものだけを捉えたくなる。だからハイがきつくなるようにEQをいじりがちなんですよね。その上で音圧を上げよう上げようとすると音も音楽もうるさくなってしまう。

また、音の力点とは楽器ではなく「身体」に左右されるものだ。ギターで8を刻むときはオルタネートよりもダウンピッキングだろう。またピックをどう当てるか、また発音しようとするタイミングにピックが滑って発音したらまたまったく異なる音になるだろうし(薄くやわらかいピックを使っている感じ)。ベースだって指弾きとピック弾きではまったく異なる。指弾きにするとリズム、グルーヴが強調される。ピック弾きにするとドライヴ感が出てくる。

 

 

 

「ネコ理論原型」2014/6/17

僕は僕自身のことは実はあんまりわかんないです。生きているということは一人ではないのでたくさんのかかわりの中でつながりながら生きています。だから「こうすればいい!という人生のテクニック」というのは万人にはあてはまらない。ケースバイケースなのです。ひとつ言えるとすれば真似をしても何も生れないってことです。表面上の真似はすることはあっても中身までは真似はできない。だったら思った道を進んだほうがいい。そこに「結果」を求めないのだったら。ただ、これも僕の場合ですが、自己主張をしているとどうしても虚しくなってしまうんです。そして自己主張が露骨だと自分が「寒く」なるんですよね。なので、ある時期から自己主張をしなくなった。自分にできる限られたこと、この自分という小さい器を「はい、どうぞ(^-^)」と見せておくだけにしたのです。自分を社会という川に浮かべておく、舵は1本だけ、方向も1方向だけ、これで充分かなと。評価は第三者に任せます。流れも同じく。そこに異質(笑)な小さな器が浮かんでいるだけ、なのです。

 

 

 

「仕事のやり方」2014/6/17

例えば。 仕事で「こういうのを作りたい」「こういうふうにしたい」という話がきたときに僕はいつも人を思い浮かべるわけです。あぁ~この仕事だったらあの人がいいだろうな。とか。で、その人選の基準は作風やトレンドだけではなく、依頼者の性格、波長とぴったり合いそうな人を選びます。依頼者と僕が間に入って打ち合わせをしている現場を想像します。話が弾みそうだなーとか、あーちょっと波長が合わないかなーとか。打ち合わせで盛り上がっている状況をイメージ(絵)してそこにいてほしい人を選びます。この人だったら依頼者の話をこう受け止めるだろうな、そしてこう切り返すだろうな、とか。だからクリエイティヴィティが高いだけでは仕事にならない、そこを超えた「人」としてのスキルや「人」としてのトレンドが重要なんですね。そして着ているものや身につけているもの、表情、生きてきた年輪、食事の好み、そういう細かいことが大切な要素になるわけです。だからこの依頼者だったら音楽ならあの人だな、デザインだったらこの人だな、アートワークだったらあの人だな、ライターだったらあの人だな、映像だったらあの人だな、写真・フォトグラファーだったらあの人だな、マネジメントだったらあの人だな、とイメージが膨らみます。音楽だって、僕が音楽をやってるからといって音楽を担当すればいい、という問題ではないのです。そしてコーディネートとはお互いのテリトリーのどの部分にイニシアチヴを持たせるのか?どのパーセンテージでお互い同士を入り込ませるのか?それをコントロールするのが大切な仕事です。だから依頼者(お金を出す人)ありき、ではないのです。その先にある製品や商品の完成図、そしてそれらが売れていく様子、そして売上が大切なのです。そこをイメージします。

 

 

 

「カウントとイメージ」2014/6/14

現代舞踊やコンテンポラリーダンスの現場をみていると面白いです。僕は音楽を作っていますが、ダンサーにとって音楽とは「カウント」ではなく「イメージ」なんですね。そこがすごいと思います。だからその証拠に音楽がなくても彼らは同じように踊ることができる。このアンサンブル能力は音楽の人からみるとすごく魅力的です。音楽は譜面やカウントがとても大切です。振り付けをみていると以前のように舞踊譜があるわけではなく口伝のように振りを覚えていきます。そこがアンサンブルに強くなる要因なんだろうな。もし、ダンサーたちが音楽的素養を身につけて演奏するようになるととても質の高いものになるだろうな。音楽家も現代舞踊やコンテンポラリーダンスをやっていくとたぶんアンサンブル能力は格段にあがるだろうな。そう思います。

 

 

 

「音楽のつくりかた」2014/6/10

音楽構成を考えるときに、もっと音楽から離れたところで音楽を考え、構成を考えればもっと面白いものが出てきそうだ。例えばダンスの音楽を作るときに、音楽的文脈とはまったく異なるオーダーを受けることが多い。振り付け的には正しいのだけど今現在の音楽のセオリーからすると正しくない。ただ、そこにはディスカッションと計算があるから正しくないということを超えた意外性のかたまりのような音楽が生れる。それが非常に面白い。だが所謂アヴァン・ガードとはまったく異なる。本当は本当のアヴァン・ガードなんてもうとっくに生れるわけもないのだから言葉だけが虚しく響いているだけなんだけど・・・それはおいといて。音楽構成を考えるときにA-B-サビーブリッジ・・・・・とか形式だっていくつかある。これは音楽を考えているからこうなってる。でも、これが散歩を軸とした音楽だと、まず当然犬の散歩して帰宅するまでに30分、とすると30分で完結する音楽が必要になるだろう。また時間軸ではなくうーん・・・たとえばラーメンの具を軸とした音楽だと、素材はもう音じゃあないかもしれない。音楽を作る素材を音楽からではなくまったく別のものから得ていくと音楽の可能性は無限に広がる。

 

 

「音楽」2014/5/26

なんでもないものに意味を持たせるためにはその前後左右が非常に重要なエレメントになってくる。そこには必ずヒトが介在している。そして些細なことでなんでもないものは劇的に変化する。それが面白い。楽器からよく意図せぬノイズが出る。そこにヒトが介在することでノイズは音楽になる。だから僕がやっていることは誰でもできる。トランペットで風景を奏でることもできれば会話もできるし音楽がダンスにもなりうる。誰もがなんでもないものを音楽として楽しむことができる。そこにヒトが人として感情を自由奔放に走らせることができれば。

だから、楽器とはある意味非常に大きな「障壁」であると考える。多くは「楽器」を「こなす」ことが重要とされていてその先の音楽に届いていないこともよく見かける。そして「こなす」ことが困難な人たちは「目に見えていないその先の音楽」を"も"恐れてしまう。それはなんだか勿体無いと思ってしまうのだ。

以前、BOWWOWの山本恭司さんの学生向けのクリニックのときにたくさんのヒントをいただいて僕自身のワークショップや「音楽」としての考え方にも拝借、取り入れさせていただいている。今日も(昨日か・・・笑)実験した中で上記のことをやっていくためには人としての感情をどう伝えていくか?演奏していくか?このことが最も重要でそのことがなんでもないものに意味を持たせてくれる。

 

 

 

「集中しすぎないこと」2014/5/28

面白いのはひとつに集中しすぎると頭の切り替えがなかなか・・・なのですが、同時進行だとまったくことなる仕事をしていてもそれらがふとつながることがあってそれがまた新たな発見になって更にいい仕事になっていくのです。悩んだり選択について考えるとき、人は全身が"止まって"しまいます。常に頭がアクティヴだと常にいろんなことが出入り自由でいろんな発想を生み出してくれます。

 

 

 

「意固地にならなくてもいい」2014/5/8

と、申しますか、特に僕がそんなに目くじら立てて音楽家の経済的安定を叫ぶ必要はないかもしれないです。各人がやっていくことであるしセミナーや講演をきいたところでできる人はできるけれど出来ない人は出来ない。何故今このことを言っているのかは、要は、今団体が大変なのです。赤字を解消しようと必死、だからです。それ以外のところではとにかく日々僕は僕でやっていくだけなので、目くじら立てることはないのです。どんなにあがいても淘汰されるときは淘汰されるし生き残る人は生き残るし。そういうものなんだと思います。だからいつも言っていますが、評価は第三者にお任せ、露骨な自己主張もしない。つまらないことで意固地にならない(もっと他に意固地になるべきところはあるはずだから)、これだけです。

 

 

 

「小西徹郎はニセモノ??」2014/5/12

商売(ビジネスという呼び方はしない)をしていくときの基本は常に右肩上がりであること。ではどうやって右肩上がりにしていくか。常に新商品を開発し続ける。頭打ちになったら新規カテゴリーを加えていき、ボトムアップをしていく。これらは基本中の基本。コンサートを行うためには会場費がかかる、音響照明のレンタル費がかかる、でも、演者やクリエーションには費用を見積もることはほとんどない。近年、制作費は抑えられてきているけれど、会場費や機材費は大幅には下がっていない。この背景についてはあまりにも常日頃から言われていることなので省く。では、どうやってクリエーションにパーフォーマンスに予算を持ってこさせるか?それは非常に困難。何故ならモノに対してお金は支払うけれどクリエーションにはお金は支払えないという流れができてしまっているから。ではクリエーションを生業にしている人はどうすればいいのか?答えはモノの部分の商売も手がけるしかない。あと、クリエーションに予算がいかないのはいい作品良くない作品、作品をみる審美眼が乏しいから、というのはある。どんなに極めてもそれを理解してくれるオーディエンスは少ない。これって激辛カレーに似ていて例えばココイチの20辛と100辛、実はマヒしてて20も100も同じように感じてしまうというのと似てはいないだろうか。と、こういうことを書くのも・・・何だかねぇ・・・どうやったら芸術家が食っていけるか?を考えているうちはまだまだ未熟なんですよね。何故なら成功してる人たちは芸術家が食っていける世界を!などとは思わないはずだから。どんどん自分で推し進めていくだろうし。

こういう思考は専門学校などで教えていたときの感覚を引きずっているんだと思う。若手を育てよう、だからやる気を出させてモチベーションをあげて!と、教育という名の自己満足を繰り返す我々大人たち。やるんだったら子供!子供のときからしっかりやったほうがいい。

前、友人と電話で話したが、本当にズバ抜けている人は学校なんて行かない。行くんだったら専門学校じゃなくて大学に行くだろうし。若くてズバ抜けている人はとっとと上京してとっとと表に出ていく、そういうものなんだろうな。だから僕が「芸術家を育てる」とか「芸術家が食えるシステムを作る」とか言ってるうちは「あぁ~小西徹郎はニセモノなんだな」と思ってもらったほうがいいでしょう(笑)

 

 

「文脈」2014/5/2

作者が考える文脈ではなく、さっと直感で自分で文脈を作りたい。でも、たぶんそれは直観も入っているんだろうな。言葉によるリメイク?みたいな。そしてそこから音楽へとつなげていく。形としての音楽ではないものを。「こう、だから、こう。」という次元を飛び越えていたい。さっと入ってくるものに瞬時にストーリーを生み、瞬時に音になっていく。空気の振動ではない音楽、でも窒息しない音。つまり、何も考えたくはない、ということ。

 

 

 

 

 

「音楽??」2014/4/30

己を象ってみると、出すべき音が聴こえてくる。そしてそれを裏切る。

空気に触れることなく体内で完結してしまう音楽があってもいい。

 

 

 

「永遠の欲望」2014/4/29

たとえば、大好きな人と愛し合うときに、コーヒーとミルクのように溶け合えることができたならばどんなに幸せだろうかと思う。でも、望みどおり溶けあってひとつになることはできない。だからずっと求め続けるんだろうな。

音と視覚もまったく同じなんだよね。両想いのくせに物理的に溶け合うことができない。だからイメージが尊いのですよ。だから音は視覚を視覚は音を求め続けるんだろうな。

 

 

 

「コンテクストと瞬間」2014/4/28

ナチュラルなのが一番いい、そして、ナチュラルなものを挽いたり伸ばしたりしていくともっといい。でも、それが瞬間に出来上がっていることが大事だ。音や空間を考える、あるいはつくっていくときにナチュラルなものとはいったい何なのか?を探す。だが、探しているところに答えはない。探しているものは「そのとき」にしか見つからない。

そう考えると、僕がやっていることは行為としてのクリエイトとはかなり異なる。

イメージとは非常に短命で、クリエイトにつながった瞬間に他界する。そう、バトンタッチをするのだ。そしてイメージは「思い出」となる。

瞬間にクリエイトされてしまうものにはコンテクストやロジックを無理やり用意する傾向もある。本当は何も必要ないのだけどね。

 

 

 

「人生ワイヤレス」2014/4/20

人間は生まれたときからワイヤレスな生活を送っている。だから言葉を発することは、表現をする、ということはワイヤレスな生活の中でお互いのチャンネルをチューニングしているようなものだ。だから僕らはいつも常にアンテナを張り巡らせながら未だかつてキャッチしたことのない「電波」を探しながら今日もチャンネルあわせのつまみをまわしているのだ。

 

 

 

「贅沢とは何か?」2014/3/27

「贅沢」とは何か?お金のかけ方、ここはとても大切だ。高級車に乗る、という贅沢。素晴らしいことだと思う。だが、高級車の良さをどう感じていくのか?ポルシェ、ベンツ、などなど名前だけで満足するのは勿体無い。高級車を乗る楽しみはその作りや使われている素材や職人、設計者のこだわり、ここを知り、味わうことによって楽しむ、そうあってほしい。どこそこの何だから、ではない満足の得方、その楽しみを知っている人は良き贅沢を味わっていると思うのだ。家を建てる、そこには庭を造る楽しみ、庭に置く彫刻を選ぶ楽しみ、お気に入りの絵を飾るという楽しみ、様々な楽しみがある。でも、庭を造るために調べたり勉強したり、彫刻を買うために彫刻のよさを学んだり、お気に入りの絵を買うために画廊に足を運び、作家と語り合ったり、気に入った絵画が出来上がる過程を作家から話をきいたり、そういうことが本当の贅沢なのではないだろうか?住まいの中にアートがある、しかもそのアート作品は買い手である本人と作家、つまり、人と人でつながっている。それこそが良き贅沢なんだろうな。

自然はとても大切だ。自然は、人が「こうありたい!」という目標を持たせてくれる。だからそこに挑むようにアートは生まれていく。また、音楽が音や形式や理論から生れると思ったら大間違いで、自然はもちろんだが、人が作った作品からその質感や思いを受け取り、そして音楽は生れる。そのことを忘れてはいけない。このことは音楽に限らず、言葉の世界でもダンスの世界でも同様である。すべてはつながっている、だから知りたい、学びたい、という欲求が生れる。カテゴリー、ジャンル、ではなく、すべては串刺しされてつながっている。音楽、アート、踊り、文学、これらは日常生活の中になくてはならないもの。だから、良き贅沢が浸透していない現在、良き贅沢が浸透していないためにアーティストたちが苦しい生活を強いられていることが誠に残念なのだ。いつも言っているけれど、売れる芸術を作るのではなく、芸術を売っていくためのことを考えていくことが大切だしその理解者と協力者を説得しながら納得していただきながら集めていくことが大切だ。

 

 

「謎の力?」2014/3/19

人の中には人以上に重く、地球よりも宇宙よりも重く、自分自身の中にあるにもかかわらずどうしてもコントロールできない何かがある。それを見つけることで生き方は良い方向に進んでいく。

 

 

 

「心の箪笥」2014/3/12

僕はいつも、道を通りながらいろんなものを引っ掛けながら忘れてしまったように心の箪笥にしまいこむ。まるで草むらを歩いて雑草がズボンに貼りつくように。そしてそれらがまたすり抜けていって感性の周りを散らかす。閉じた眼でそれらを拾い起こし、再び心の箪笥にしまいこむ。この「作業」には時間が存在しない。それがうれしい。時間を認知するのは人が生きる、モノが朽ちていく時間だけである。人の脳は実はとても自由なつくりになっている。

 

 

 

「創作と表現」2014/3/10

人は形から質感をイメージしその質感から発する摩擦を経験の中から引き出し、音に見立てる。そんな体内と体外のやり取りを人は人の手で掴むように行っている、その営みが楽しい。

 

 

「グローバスタンダード」2014/3/8

グローバルスタンダード化し「過ぎた」ものは売れない。何故ならどこでも聴けるから。グローバルスタンダード化する過程で売れる。例えば、僕はサウンドオブミュージックのCDもレコードも持っていない。だけどドレミの歌は知ってる。誰もが知っていることと売れることは異なる。だからリメイクがとても大切だ。そして新しいもの、いや、語弊があるな、今、どんどん生み出されているものをしっかりと世の中に乗せていくことが大切だ。そして、リイシューされたものはどんどん買おう。復刻版、リマスター、そこにはその時代のデザインがある。それを楽しもう。リイシューされた昔の素晴らしい音楽が今の、現代人の中に入り込んでいく、そこで体内音楽的化学反応がおきていい音楽が生まれてくる。そうすればどの時代にもいいもの、残るものは生れるだろう。こういう時空の循環が善き人と良き世界を作る。

 

 

「向き合う」2014/3/8

音楽に向き合う時間と測れるほどに平面と向き合えることは時間を越えた発見を得ることができるのだろうか。びっくりするほどのインパクトも良いが時間をかけて向き合うことで感じ取れるものは尊い。瞬間に時間と時間を無数に往来することはまるで人が生きていることを証明しているかのようである。僕はいつもそんな音の覚醒の中にいる。

 

 

「生き方」2014/3/7

昔、「田舎暮らしの本」というのにはまっていて緑の多い自然の中に美術館を建ててアートに囲まれて暮らすことを目標としていた。当然親戚一同150%の猛反対をくらい、何もできなくなってしまった。だが、思う、もしこの20代半ばでこういう自分の城を持ってしまったら??・・・・もしかしたら僕はここに固執してここを守るためのことしか考えなかっただろう。確かに関東でマイホームを買う価格に比べたら全部込みこみで2000万円出せばお釣りがくるくらいだから・・だけど本当に那須高原の大自然の中での暮らし、車がなければ買い物や病院にも行けない。40手前で会社やめてアートで勝負!ということもできなかっただろう。つまり、若いときは特にだけど、重たいものを背負わないほうがいい。先々に良きビジョンを持ってそれを目標にフットワーク軽く動くほうがはるかに良き成長をするだろう。ただ、目標はフラフラせずに初志貫徹、これが大切。自分探しをしているうちはまだまだ。海外に出るにしても自分探しをするために出るのと、明確で具体的目標を持って海外に出るのとでは雲泥の差がある。海外で何かをやる。それはお金と時間があれば誰でもできる。大切なのは海外で何をして、具体的にこういう結果を得る、という具体的目標と目標達成のためのプラン、計画が大切。

たぶん僕が20代半ばで美術館を建てたとしたら、今の自分はないだろうな。

「田舎暮らしの本」を読んでいて、脱サラしたデザイナーとアクセサリー作家夫婦の長野県への移住とお店を構えて商売をしていく、そのプロセスの記事を読んだ。当時はいいなあ~と思っていたが、今は違う。この夫婦は旦那さんがデザイナーで奥様がアクセサリー作家。長野県の人里はなれたところにウサギフレーバーの手作りグッズを売る店をオープンさせた。ものすごい山の中なのにお金がかかるからといって車を処分し街には歩いて買い物に行く。雑誌のインタビュー記事ではとても気候の良い中歩いている夫婦の姿がとらえられているが、よく考えると、もし、何かあったら、もし、大雪や大雨が降ったら?など、思うところがたくさんだ。それに、こうやって雑誌で紹介されたところで本当にこのうさぎグッズを求めてお客様が来店されるのか?それもある。眼に見えない9割以上の大変なことを雑誌は当然伝えない(読者の夢を重視)。田舎暮らしはとても贅沢な夢だと思う。だから脱サラしてまでやることじゃあない。お金を貯めて定年退職後に楽しむのならわかるが。やりたいこととやれることとやらなければならないことと、ある程度生活できるレベルで生きていけるかはそれぞれに異なる。様々にあることの重なった部分を串刺していく、その線がちょうど良いバランスである。そこを探すことは意外と難しい。だからできるだけ交わる面が多くなるように、特化したい部分はできるだけ大きな面積になるようにして、稼動範囲を大きくしていくことが大切。そうすれば特化したいことはバランスの串刺しの範囲に入るだろう。

 

 

「クリエイト」2014/3/7

かけ離れることと想定を超えることは異なる。

クリエイティブな現場において求めるものは自身の想定を超えた発想だったりデザインだったりアイデアだったりする。仕事をする以上、主従関係は明確でなければならないが、それと同時に対等でなければならない。だから、手となったり足となったり、ということは求めていない。僕の想定をイメージを超えるデザインや発想・アイデアに出会いたい。想定を超えるからこそクオリティは上がるし独りよがりにもならないし、より良いものが生れる。僕はその想定を超えられてしまう瞬間がたまらなく好きだ。遥かなる地平を目の前に引き寄せた感覚はクリエイティブな現場だからこその醍醐味だ。クリエイターとしてとても重要なのは物事を知っておくことと、物事を知らないことだと思う。この矛盾の交差の中に本当のクリエイティヴィティにつながるきっかけがある。たとえば、海外に行くと価値観が変わると結構多くの方々が言う。だが、僕は変わらなかった。どこに行ってもどこにいても自分は自分自身でしかない、ということに逆に気付かされた。海外に出て帰ってきて「変わった」「人間が成長した」という人もいるだろう。だけど、どんなに海外に出て活動をしてきても作品が良き変化、成長をみせていなければそれは心のリフレッシュをしたに過ぎない。常にどうやって創作に、表現に向き合っていくか?この緊張感がとても大切だと思う。

 

 

「歴史と文化」2014/3/2

歴史や文化、そこから芸術、これらを内在化して作品としていくには膨大な時間が必要だし密度が必要。また、そして内在化とは、単に知識を得るだけでなく、教養とするのみならず自身のその時代背景や文化に置くことだ。だがそれが一番難しい。。

 

 

「ブランド」2014/3/1

お金を追いかけすぎると節操がなくなり、ブランド力は育たない。ブランド力が育たないと積み上げることができないため信頼が生れない。信頼が生れなければ存続することができない。お金を追いかけ過ぎると常に先にあるのは先細りの人生。と、ロジカルに説明するのは誰でもできる。大変なのは実行に移して結果を出すことが一番困難。人は常に何かに依存しながら日々暮らしている。依存するものが何か?によって人生ってまったく変わってしまうよねぇ・・・つまり、本質を見抜こうとするスタンスと本質を見抜くこと、そういうことだ。

 

 

「壁」2014/3/2

僕は壁が好きだ。以前はミニマリスティックな平面がとても好みだった。でもそれは平面にかたどられたものが好きであったに過ぎない。そこに込められたコンセプトや思い、それを感じるようになってくると、あまりにも重くのしかかり逃げてしまいたくなってしまった。そのことが僕を感情の世界に走らせた要因でもある。

だが、逆に完全に作りこみされていながら、作りこみされた感が表に出ているものに対し大きく嫌悪感を抱くこともあった。そこには作家の甘えも感じてしまうようなものもあった。

ミニマルミュージックとミニマリズムがもつ共通の可視化されたものは単に表面に過ぎない。ミニマリズムの中にある立体への唾吐きとも思える思いは僕にとっては非常に苦しい、苦しい思想だった。だからある意味それを簡単に手にすることが僕にとっては怖かった。

僕は壁が好きだ。シミやキズ、換気扇の埃や垂れた黒い油、人が意図しながらも意識することなく表れる営みの欠片が美しい。それは自然と、ではなく、意識下に積みあがった軌跡を何度もたどり続けているから美しい。

 

 

「内輪でチンタラやってんじゃねぇ!」2014/2/27

外に向けて発信し、認知度を高めていくためのやり方と、内部がよくなっていくためのやり方では180度手法が異なる。外に向けて発信し、認知度を高めていくためには外の風をふんだんに入れなければならないだろう。内部がよくなっていくためには外の風を入れてはならないだろう(皮肉)

内部がよくなっていくとどんどん閉鎖的になってクオリティが下がるだろうし最終的には消滅してしまうだろう。だが外に向けて発信し、認知度を高めていくと良き発展をしていくだろう。何故僕が分野の壁をまたいで、また地域の壁をまたいで物事を進めていくのか?その理由は明確だ。

 

 

「音楽の行き先」2014/2/15

例えば、絵の具というある意味均一された質感のもので描かれたある意味「パーツ化」されたものの集合体をみるとき。

音楽におけるパーツ化されていながら同じ質感の中にあるものとして音楽を聴かなくてはならないとき。

パーツとパーツがカウンターポイントしたりする、そのぎこちなさが気持ちいい。

それがもし異なる質感のものどおしをぶつければ単にコラージュでしかないのだけど同質の中に埋め込んでしまう、その中から異質を感じていく行為が非常に楽しい。実はこっちはダンボールの切れッ端なんだけどこっちは泥を塗ったものなんだよ、的なものを同質の中から発見していく、そういう音楽的分析をすることが実は音楽は音ではなく空間である、というところにたどり着く。

 

 

「ヴェクサシオン」2014/2/8

昔、何もまざりっ気のないまったく無風で雪に覆われた真冬の丘でじっとしていたらやっとの思いで体内の音がきこえてきた。体外に発する音は無常であるが体内の音は常に増幅されている。そう、反復ではなく増幅。人が生きている限り人にとっての時間は反復することはない。だから音楽にもリピート記号があるが、リピートではない。常にネクスト。僕は譜面を書くときはリピートやコーダなどは使わない。何故なら人が生きているのと同じく音楽も生きているからだ。だから、ミニマルだって反復じゃあない。ミニマルは増幅だ。ライヒの曲は人が演奏するから意味がある。エリック・サティのピアノ曲で「ヴェクサシオン」(癪の種)という曲がある、840回「繰り返す」というやつ。

で、繰り返しじゃあないんだよ、というのは今もうそんなに気にしてなくて。

それよりもサティの譜面みてて「癪の種」のまた別の視点からみた意味が見えてきた(笑)僕もたまに同じ思いになるからよくわかる(笑)つまんないことなんだけどね(笑)

 

 

「モノクローム」2014/2/8

モノクロームの世界に憧れるのは、色彩を内在化しているからなんだ。それはPCで写真をみていてもなかなかわからなくて、原画をみているとそのことがよくわかると思う。「色彩とは造形である」と思う。それは音楽も同じく。

 

 

「脳の使う場所」2014/2/4

原稿を書いているときと演奏しているときでは脳も含めて身体の使っている部分が異なる。原稿を書くということは文章を書くのではなく、日々の発見や思考を書くといったほうが正しいかもしれない。常に頭がクリエイティブに開かれていることが大切だ。演奏はそれとはまた異なる何かの器官が働いていて、髪の毛も含んだ皮膚全体、表面から1mm足らずのところから外の世界は完全に肉体と分離している。だけど、外の世界と隔絶しているのではなく空気ごと取り込んでいる、そんな感じ。だからお客様も僕の体外にいながら僕の体内にいる。そして僕の皮膚のすぐ下は常にぶよぶよしている、演奏しているときは。でも、その時間が終われば社会との界面を探し続けている。この両極端な間を常にバランスを保ちながら行き来する。

 

 

「雑感」2014/1/30

成金趣味だった人が徐々にセンスよくなっていく過程・・・みたいな。

目に見えているものの先がうっすらと見えはじめているような、そんな感じ。

成金趣味の人が空港のラウンジにいてちょっと「浮いてる」そんな感じだとか。

「スマートになろうと努力しながらも「スマート」に成り切れない人、みたいな。

そんな葛藤が名刺の顔になっている、という感じだろうか?

おしゃれなんだけど「やりすぎ」ている感覚。背伸びしてるんだけど届いていない感覚、そんなものが音やビジュアルに現れているものが愛しいと感じる。

やってる音楽はナチュラルだし和の味もするが、スコーン!と爽やかなイメージ

も何だか・・・毒はなくてもいいけど、「影」はあってほしい、そういうイメージだろうか。

 

 

「伸びていく人生」2014/1/26

自分なりの世界ができた、とか、自分なりにがんばったとか、んなもんベスト尽くして当然やんけ。自分なりに成長できた、とかって自分の想定内やんけ。自分で自分を慰めたり自分で自分を納得させたり、それはヤダ。思いもよらないことが突然起こって「なんじゃこりゃ!」と身震いするからアーティストって仕事は楽しいんやんけ。地道にコツコツやって徐々に花が咲くってのはありえない。花はいきなり土星の地表に咲く、そういうもんや。って自分で書いてるうちはまだまだや。書いとる暇があるうちはまだまだや。でも書くけどな(笑)Jeffのグラミーの件は俺がまだ会社員時代に作曲受験組とのメシ食う会で音楽やめとるやろと思ってた作曲の友人が大活躍してて超悔しかったのに似てる。

 

 

「テクスチュアと感情」2014/1/26

手触りや質感から感情を読み取る、そんなことをきっかけに音楽を通じて表現しているのだけど、実は「表現」という言葉がそんなに好きではない。理由はどこででも使い古されている言葉だし、本質がないものになってしまっている感じがある、つまり形骸化しちゃってる、というところからだ。今までずっと所作(音も含めて)の全てに意味や必然性を求めてきて、あえて自分自身をがんじがらめにして、それでも「どうだ!」というものにチャレンジし続けてきたのだがそこを離れると目に飛び込んでくるものが異常に軽く感じてしまう。「俺、性格悪いんかな?」と思ってしまうくらいに。研ぎ澄ましたものは鈍らせてはじめて研ぎ澄まされていたことがわかるし、鈍らせるからまた研ぎ澄ますことができる。研ぎ澄まさないで見えてくるものと研ぎ澄ましたあとに鈍ってきて見えてくるものでは見えるものがまったく異なる。と、そんなこんなで自分の音楽と社会との界面を作り続けている。

 

 

「光と影」2014/1/19

光と影をぶつけると空間ができる。 光と光をぶつければ影はなくなる。

影と影をぶつけると無限の漆黒が生まれる。光と影はお互いに「底」を持っている。

販売数と単価を上げていくための行為がどうやって中身にコンタクトしてくるのか?そのことが非常に重要。アーティストは「ビジネス感覚」ではなく、

「商人魂」が必要。ビジネス、という言葉には冷たいものを感じるが、「商人」と言う言葉にはどこか人臭さを感じる。この人臭さがとても大切だ。何にしても根幹に「人臭さ」「人がいる」ということを示唆していくことが大事。

 

 

「他分野との交差」2014/1/19

「他分野との"交差"」

どうやって僕の音楽、いや音楽だけでなくもっと全体的な像を広げていけるか?つまり、マーケットを拡大していけるか?ということは常に課題で、その課題から遠のいたときにはあまりいい結果を生まない。

音楽が音楽だけの世界で動いていると興味の範囲は極端に狭くなってしまいこじんまりとしてしまうことが僕にとっては怖いことなので他分野とのかかわりを大切にしている。僕の基本的な姿勢として、音楽を美術の世界や舞踊の世界に送り込み、音楽家としての視野や視点を訪れた先の分野に届け、そこでみたものに対して足りないものを見つけ、提案していく。そして訪れた先の分野で得たことを音楽の世界に持ち込んでいき、提案していく。これが僕の活動だ。そんなこんなことをどんどん進めていくと自分自身が音楽家ではないような感覚も芽生えてくる。そして、音楽を作るだけでなく文章を書いたり、アートディレクションしたりプロデュースしたりすることも自分の作品であるし、僕の音楽だけではないものが、もっと全体的なものが広がっていくことが仕事につながるんだろうな。だから音楽家というよりは文化人的な活動のような気がしてならない。

美術の人々にも音楽の世界や舞踊の世界に足を踏み入れてほしいし、音楽の人にも美術や舞踊の世界に足を踏み入れてほしいし舞踊の世界の人々も美術や音楽の世界に足を踏み入れてほしいと願う。その「交差」がまだまだまったく足りないような気がしている。

僕はライターでもないしデザイナーでもないしフォトグラファーでもないけれど、でも文章は書くし、趣味で下手の横好きだけどデザインもしてみたり写真も撮る。こういう動きがもっともっと盛んになってくると面白いのになぁって思う。

たぶん、第三者に合わせていくよりも、第三者に「おぉ!」「ハッ!・・・」と気付かせる、つまり提案していくことがマーケットを拡大していくことのきっかけになるんじゃないだろうか?そのように感じている。

 

 

「皮膚感覚」2014/1/9

皮膚の内側と肉体が遮られる感覚でパフォーマンスできているときはだいたいいい感じだ。皮膚の内側と肉体が遮られている状態だと皮膚の外側の世界がすごく遠く感じる。かといって、無になっているわけではなくて、ものすごく様々な気配を敏感に感じ取ることができる。僕はきっと無にはなれないな。だから面白い。

 

 

 

「この道」2014/1/9

「この道」を目指す人たちへ。

「この道」はひとつの仕事が終われば「失業者」と同じです。だから途切れないように常に考え、常に動く。常に先がない、だから常に道を作る、切り開いていく。それが「この道」です。だから情熱や実力だけでは生きていけない。

社会から認知されるのは結果を出した人だけです。だから結果を重要視します。

過去の栄光にアグラをかいていてはダメで、常に今、結果を出し続けることができるか?そこが重要です。だから安易に「この道」選んではいけないのです。

それぞれの道にある「厳しさの質」を見極めていかないと。

 

 

「子供の頃」2014/1/9

子供の頃、出来が悪い、などとレッテルを貼られてしまう子供も少なくない。僕もそんな一人だ。読書感想文を書くのがものすごく苦手で、本を読むことも嫌いだった。でもそんな僕が今では連載まで書いてる。人間はどこでどうなるかなんてわからない。音楽なんて中学3年になるまでずっと通知表は「2」。そんな僕が音楽を教えている。人間はどこでどうなるかなんてわからない。だから、勉強に限らず、何か悪いレッテルを貼られても最終的にはどうでもよくなる。ただ、一番大切なのは子供の頃はある程度従順でなければならない。何故ならインプットが乏しい状態では「自分の考え」というものは未熟なのはもちろん、発達も発展もしないからだ。だから、レッテルを貼られたら、そのレッテルを挽回できるように努力をする。その努力が先を作っていくのだ。  そして、ある程度(40代くらい)生きたらだいたいがある意味どうでもよくなる。そうなったらしめたものだ。若い頃に子供の頃にレッテルを無視して或いは避けて生きてしまうと、そのことが大きな後遺症になってしまう。だから子供の頃は従順なほうがいい。反抗はいつでもできるのだから。ただ、若いときにしかできない反抗もある。僕にはそれがなかった。それが幸か不幸か今につながっていることも確かだ。人間はどこでどうなるかはわからない。そういうものだろう。

 

 

「音楽と人生」2014/1/8

昔、現代音楽をやりたい、と思っていたときに音大受験の仲間からたまたま武満徹さんの連絡先をきいて、作品をみてもらいたい、と願って結局お会いする勇気もなく、作品をお蔵入りさせてしまった。憧れている作曲家に自分の作品をみてもらいたいというのは芸術家として当然の欲求だ。ただ、今思えば、譜面見せなくてよかった・・とも思える。最近特に思う、作曲って僕にとってはすごく恐いことだなって。

 

会社を辞めて、やめていたトランペットをまた吹き始めて、あぁ・・・衰えたな・・と思いながらも何とか続けて、それでも途中で本当に演奏不可能に追いやられて、そこからまた脱出して、激痛の治療に耐えて今がある。、以前、自分の音源(Earth Songs)をブルーノートに来たパットメセニーさんを捕まえて挨拶と少しだけお話をして手渡した。人はいつどうなるかわからない。だからできるだけたくさんの人に会っていたいと思う。今日話さなかったことを明日話せるとは限らない、それが生きている緊張感でもある。だからいつもとことんまでやるんだろうな。人間らしさってなんだ?絵に描いたような人間らしさ、それが天災や事故や戦争で無残に消えてしまう、それを人間は自身が体験せずとも周りの事例でわかっているはずだ。明日がある、という幻想、それは人の強さでもあり弱さなのかもしれない。

 

常に考えていれば「考える時間」をわざわざ作る必要はないだろう。常に考えていなければ常に何も動かないだろう。常に今を100%生きているか?その今が次を常に生み出している。人間に与えられた時間は非常に少ない。また、「与えられた時間」という言い方さえも、それさえも幻想である、ということを常に人は理解していなくてはならない。だから人は生きている密度がすべてだ。諸先輩方、大先生にはもっとずっと元気で我々に叱咤激励していただきたいのだ。

 

 

「平面に閉じ込める音」2014/1/7

美術も作品と向き合う時間が必要なように、音楽も同じくである。

音楽も美術と同じようにコンサートやライブや舞台ではなく

美術館やギャラリーで展示できないだろうか?

 

 

 

「肉体」2013/12/27

舞台裏、舞台袖はとてもいい空気に満ちている。とてもじゃないけれどダンサーには近づけない。そういうとてもいい緊張感があって、それそのものもアートだ。ハーモニーがびったり響いて音が増幅されるのと、思考に乱れがまったくない人のもつ空気はとてもよく似ている。 音楽で捉えると、「こういうのが売れるよね」とか「この様式、この書法がうーだらかーだら」っていってるうちはニセモノなんだよね。にわかにちょこちょこ作った音楽よりも、舞台袖にいるダンサーの空気のほうがよっぽど豊かだ。

 

 

「表現雑感」2013/12/27

生々しい空気や生々しい皮膚感、目の前で呼吸している感がほしいと思ったり、また逆に刃物のように人間離れしたものをほしがったりするのだけど、いつも思うのはその目の前が非日常であってほしい、そういうものを目標としている。つまり、人が人ではないものになっていることがとても望ましい。

そういう中に自分を配置したときに何がおきるのか?そのことがいつも面白いところだ。

見え方、見せ方というのはあるのだろうけれど、でも本当は眼に見える部分はもう既に僕にとってはあんまり重要ではなくて、キャンバスをグサリと突き刺して切り裂いたその向こう側、であったり、音楽という形が無残に壊れ去ったその向こう側が僕にとっては重要だ。

もちろん「形」の否定ではないし、「新しいものを目指してる」

だなんて青いことも言わない。あまり気がつかない根幹を常に見つめていたいのだ。

 

 

 

「仕事のみそ」2013/12/25

常にビジョンを持っていて、それだけでなくそのビジョンを雄弁に語っている自分をイメージしていると、つまり「常に考えて」いると書類を書き上げたり原稿を書いたりするのは当然だが速くなる。書きながら迷うのは「常に考えて」いない証拠。

だからまったく門外漢なことを書かなくてはならないとき、ものすごく時間がかかる。何故なら考えてもいないことを考えながら書くからだ。

 

 

「生イカのお造り」2013/12/23

僕にとってアートの仕事とは「生いかのお造り498円」だ(笑)

しかも生イカ一杯を漁師から60円で仕入れるのではなく、自分で釣りに出かける。そのための釣り道具やエサはアートで言えば普段から見聞を深めることだ。いいものを食べていいところに出かけていいものを見て聴いて感じる。これが僕の「生いかの釣り道具」だ。それをツマやパセリやレモンを最小限に抑えながら、包丁を入れて美しく、おいしそうに、加工する。包丁を入れるのも美しくするのも、おいしそうに見せるのもイカ釣りの道具の中に含まれる。つまり経費はかからん、ということ。これをアートサイドでいえば、楽器は28年前に買ったトランペット、23万円したが減価償却どころか寿命までとっくに越えて今でも使ってる。そして簡単なDAWシステム、フリーソフト、システムにお金をかけない。お金をかけるのなら普段のおいしいものや展示を観にいくことに使うだろうし、音の入口と出口にお金を使う。音の出入り口は壊れない限り、きちんとメンテしていれば初期投資でほぼOK。つまりトランペットと同じだ。だから演奏することや僕自身が一人の人としてパフォーマンスをする、その空気や存在、クリエイティブなものに報酬は発生する。だから僕のアートの仕事は生イカのお造りなのだ。

 

 

「結果を出す」2013/12/16

会社にいると、「結果」が出せなかったら左遷されてしまう。だが、「結果」を出したからといってそれだけでは昇進しない。「人」がとても重要だ。「人」とは「一生懸命がんばってる」とか「自分なりにがんばってる」などそういう主観ではなく第三者からみた「人」としての特性、性格。一生懸命がんばるのは当たり前。そこから先の「人間的能力」のことを「人」という。「やさしい」「いい人」というのは当てはまらない。どんなにがんばっていても、どんなにやさしくていい人でも「結果」が出せなければ左遷。でも「結果」が出せてもやさしくていい人でなければ、一生懸命がんばっていなければ昇進はしない。

ここで言いたいことは、つまり。

「結果」を出さなければ何も動かないし何も進まない、ということ。

本当の成功者は常に笑顔だ。だから「結果を気にしていてはダメだよ」と言う。

もっと大きくとらえていなさい、と言う。でもね?それは「結果」を出し続けたから言えることなんだと思う。その積み上げが人を強く、笑顔にしていく。

だから「結果」はとても大切だ。

「結果」=「ビジネスの成功」と捉えるのはあまりにも貧弱すぎる。そういう意味ではなくて。

 

 

 

「音楽の本質」2013/12/14

音楽の本質ってなんだ?って追求しているとどうにもならないところにぶち当たっていくのだけど、ひとついえることは見えるものでもなければ聴こえるものでもないということかも。先日の不思議な体験や演奏する前や演奏中に空気をコントロールしているような感覚、これは説明がつかない。マジシャンにでもなった気分だ。

そして僕らはそれを一生懸命言葉にしようとする。もちろん言葉では言い表せないものなのだけど、それを一生懸命言葉にしようとするその思考回路が創作や本質の追求にはとても役に立つ。言葉にする、というのはロジックを説明する、ということではなくて。

音楽が音を飛び越えていく瞬間を体感しているのは本当に心地よい。

 

 

「分析されること」2013/12/11

特に最近思うのだけど、今までは分析ができないと理解は深まらないし、そうすることに力を注いできたつもりだったが、よくよく考えてみれば僕は「分析される側」にいなくてはならなくて、確かに分析が必要な時期はあるのかもしれないけれど、そこにどっぷり浸かることはあんまりよくないのかもしれないって思うようになってきた。つまり、バランスが大事、ということなのかも。元々構築がすごく苦手で、構成することも苦手だった。だけど、それじゃあ生きていけないって思ったからそういう癖をつけようと努力はしてきたが、あぁ。。。そうではないのだな、と気がついた。僕が自身のことに気がつくときは決して自分の力だけではなく、第三者の言葉や諸先輩、先生方の言葉や示唆によってはじめて気がつく。自分のことは自分ではまったくわからない、そういうものだと。自分で自分のことがわかる、というのは人として傲慢なのかもですね。だからいつも言ってるのだけど、評価は第三者に任せる、独りよがりの自己主張はしない、これが僕のモットーなのですがそれがとてもいいのだなぁと改めて思いました。んで、「直感」を磨く?ということはおそらくこの世で最も困難で難しい、ということも気付かされました。諸先生、諸先輩方のお話はとても勉強になりますね。きく耳を持ち続ける、これが最大の「武器」私はそのように思います。もっと興味の対象になりたいですし、もっと分析の対象になりたい、それもある意味仕事としてアートをやっていくひとつのコンテンツになっていくでしょうし。

 

 

「精神性」2013/12/6

たぶん、精神性とか精神とか神がかり?的なものはしかめっ面をしているのではなくあっけらかんとしている。だから花は黙って咲き、黙って枯れ、黙って朽ち果てていくんだろうな。そこにおせっかいしたがるのが人なんだよな。だから面白い。

 

「良い魔物」2013/12/6

精神性、精神、ということから音楽を演奏を捉えていくととてつもない、途方にくれるようなものにぶち当たる。いつもそうだ。演奏時に何も考えない僕なのだけどその前までは思い切り思考を深めたりいろんなものを観てざわつかせたり、また落ち着かせたりしながら何とか、その「精神」という魔物に「そなえている」といった感じだろうか?上手く言えないのだけど。

だから演奏時は何も考えなくてもそのときまでの様々な思考や体験が自分を助けてくれる。だから、もうね?「音楽をこうする」とかそういうところではないんです。そのときに僕の中の「良い魔物」が僕の口から息と共に楽器を通り、そこに魔物が姿を現してくれるか否か?いつもそことの闘い?のような気がします。

ってこうやって意識しているとあんまりいい演奏、いい音楽はできないもんなんですよね。というか、考えてどうなるもんではないし、意識したからどうなるもんでもない、何かを求めたからどうなるもんでもない。ということでしょうか。

 

 

「名言」2013/11/7

「仕事は会社と会社ではなく、人と人でする。」

「ブランディングとは肥沃な土の堆積。味のいいものをおいしく調理していただく日々の営み(センス)」

「"ブランディング"は努力や金で買えない。」

「僕らは財閥のお坊ちゃんにはなれない。なので。  ブランディングとはそういうものだ。ねぇ~」

例えば「逃げる」という言葉の種類は多い。いや種類ではなくてその前後左右が様々であり、最も重要だ。

 

 

 

「数と密度」2014/11/1

”人生は短い”と「数と密度」で認識(悟る)する時期がいつなのか?

によって人間は生き方が変わるだろう。

そして、その認識がきっかけで自身の他界後のこと、

ずっと先の未来のことを考え、行動するようになるんだろうな。

だから、”あと100年もすれば自分はこの世にいない”と言ってる人は

「人生は数と密度において短い」ということを認識できていないのだと思うのだ。

 

 

「空気にのまれる」2014/10/28

人間は空気の中で生きている。だから空気にのまれることはあっても空気をのむことはなかなかない。(呼吸とかそういう意味じゃなくて)全体の空気が縮小ムードになっているときに拡大へと推し進めようとしてもなかなか動かない。「今、こういう時代だからねぇ」という言葉が頻繁に出てくるときだいたいが空気に飲み込まれてる。でも社長はそんなことも言ってられないので空気をのもうとする。ところがその社長でさえも、売り込んできた営業に対して「今、こういうの売れないからねぇ」という(笑)空気にのまれる人たちは自分たちで何かを生み出さない(出せない)。

空気にのまれる人たちは簡単にブレる。

「でも、」「いや、わかっているのですが」

と言い訳をする。

空気にのまれてる人は行動しないし考えもしない。

 

 

「弱さと強さ」2013/10/6

人は自身の弱さから強さを見つける。弱さから強さを見つけたときに

人は立ち直る。弱さを克服することだけが生き方ではなく

弱さから見出す強さを大切にすることが大事だ。

弱さを短所、強さを長所と捉えてみてもよいかもしれませんね。

 

 

 

「点」2013/10/4

多くの人々は関わる(交わる)点の「数」を大切にしますが私はこの関わる点がひとつあればいいと考えています。ひとつあればそこから崩れることはないと考えています。一番大切なのはこの交わる点をしっかり見守り、見失うことがないようにすることだと思います。このひとつの交わりが次の交わりを生んでいくのだと。だから「関わらない」のほうはどんなに近づいてもどんなにあと0.01ミリのところまで近づいても交わる点が生まれないですよね?人間は常にこういう生き方をしています。でもそこをつなげて関わっていくことで次の可能性が生まれるのだと思うのです。

音楽を聴いていて何故ヘビロテ状態になるのか?それは「この曲のこの部分、この2秒のところがしびれるからついつい聴いてしまうんだよね」ということなんだと思います。人は常に瞬間を楽しんでいるのです。

この「瞬間」とこの関わる、関わらないの「ひとつの点」どこか似ていませんか?

 

 

「湿気・皮膚感覚」2014/9/25

湿気があまり好きではない僕は自宅ではだしでいるとフローリングに貼りついた湿気を足の裏で感じる。

人はいつも皮膚で何かを感じている。鼓膜だって皮膚だ。

だからいつも皮膚感覚を大切にした音楽をしている。音に感情を、感情を音に、

などというのだけどそれもすべて皮膚から入り込んで体内で感情に変わる。

「伝える」から「伝わる」のだ。物事は常にシンプルだ。

もちろん常に内在しているものも感情。

内容とか、目的とか、そんなものを持たないものであっても

そこに皮膚で感じることができるのは素晴らしい。

サウンドスケープだってそうだと思う。

生きている限り皮膚で何かを感じ続けることがある程度可能だ。

だから生命が終わってしまった者の残したもの、そして記憶から

人々は故人のことを皮膚で感じ、自身に刻み込み、受け継いでいく。

それが「忘れない」ということなのだろう。

 

 

「音楽の敷居」2014/8/17

音楽が難しい、音楽は敷居が高い、そういう風潮をいい意味で払拭できないかなぁ・・・と。ぶっちゃけ、譜面読めなくても音楽できますし、作曲もできます、演奏もできます。ちなみに僕はかなり視力がないので譜面を読むとき2センチくらいまで近づけないと読めません。音楽は難しい、音楽を知っていないと恥ずかしい?玄人から叱られる?笑われる?僕からしたらちゃんちゃらおかしいっす。叱ったり笑ったりすることがちゃんちゃらおかしいっす。音楽が好きになってもっと知りたい、もっと感じたい、という欲求がある、これが一番大切なのだと。僕だって知らないことのほうが多いのですから。山本恭司さんのクリニックの学生の質問コーナーで「どういうモード(スケール)を用いればいいですか?」という質問に対して恭司さんは「音階はひとつでしょ?」ここに大きく共感を得ました。音楽は基本的に自由であるべきなんです。だから取っ掛かりは音と遊ぶことであり、おそらく終着も音と遊ぶことなんだと思います。赤ちゃんで産まれて老人になって赤ん坊のようになって死んでいく。音楽をするって人生そのものだと思いませんか?そして、音楽は誰のものでもなく万人のものです。作る人の人柄が音楽に乗り移るから創作なのです。そして音楽が持つ可能性は果てしなく広く、だからこそ面白いし楽しいのです。だから知ることだけに固執するのではなく感じることを楽しむべきなのです。

 

 

 

「形と心」2013/8/5

音楽を絵画に例えるとこのフォトになります。左はハイハットもキックもスネアもライドもクラッシュもギターのカッティングも同じベロシティで演奏されたものの例え。左は強弱、感情、メリハリなどベロシティに変化をつけて音楽が立体的になったものの例え。音楽も絵画もまったく同じなのです。

そして、「形は心を求め、心は形を求める」

この言葉に全てが集約されています。

 

 

 

「音楽と非音楽」2013/8/3

非音楽と音楽の境界線、この言葉からいろんなことが思い浮かぶ。もちろんその中に非楽音と楽音は包括されていることは確かだ。では非音楽とはどの視点で以って非音楽なのか?それは主なところとしてやはり時間軸、つまり構造を持たないものがそうといえるかもしれない。旋律、和声、リズム、このうちの旋律と和声は一見、非音楽と音楽との境界線を作るやもしれないが厳密にはあまり関係ないとも言える。音楽として認知するきっかけとなるのはリズムだ。そしてダイナミクスだ。ただ、音楽的要素として非常に重要なのが和声の機能だ。ここも音楽と非音楽の境界線を決めるエレメントである。

たとえば、空気の振動を伴わない音楽があるとしよう。それは触覚だったり視覚だったりするわけだが、ここでは視覚を取り上げることとする。視覚の中にもし明確に音楽的な構造が存在するとすればそれはひとつのリズムである、そのひとつのリズムとは構造、ストラクチャーだ。そこには平面の中にある「寄せられたり」「引き伸ばされたり」している「割合」だ。それが時間と「ある意味」「直結」していくのだ。そう考えると空気の振動を伴わない音楽は存在可能かもしれない。非音楽と音楽のとの境界線、或いは異なりはどこに視点を置くか?によってまったく様相が変わってくるものなのだ。

また更に、では楽音を使用して機能、つまり「力点」のない旋律を作るとしよう、(力点がないものの代表といえばセリーであるがそれではないやり方で)その場合、和声の面から捉えると力点が明確に、いや、ないためもしかしたら非音楽になるかもしれないだろう。では、もっと違う視点で言おう。たとえば完成された音楽(所謂楽曲)とその楽曲の外側のエレメントと融合することによってそれはもしかしたら非音楽になるかもしれない。昔、池袋アールヴィヴァンで「丸裸にされたいくらでも傷をつけていいレコード」を買った。針を落とした。最初にきこえたのは録音されたパチパチノイズ。それが30分近く続いてそれにうっすらと蓄音機のジャズの音がかぶさっている、そういう内容だった。もちろんこのレコードの制作主旨は私の考えているところと異なるだろう。私はこれ自体が非音楽として耳に映った。

例えば更に違った視点で言えば、ミュージックコンクレートの手法を用いてもそこにリズムストラクチャー、そしてコンポジションとダイナミクスが存在するならば音楽といえるだろう。

以前、音楽におけるミニマリスムを完全否定したことがあったが、これは制作サイドのスタンスの問題を斬ったに過ぎない。音楽におけるミニマリスムは元々が「最小単位」であるため、それ自体は音楽ではない。かといってその反復とその時間も音楽ではない。音楽におけるミニマリスムを音楽とするならば、やはりその身体性と時間ということではないもっと大きな「音楽におけるミニマリスム」そのものが音楽なのではないだろうか?そのように思えてならない。

 

そして何よりも、静かなるも華やかなるも感情が感じられるものは音楽といえるだろう。

いろいろ捉え方はあるがわたしはいつもその中間、中庸が好みである。

そして意外と世の中バランスが悪いことに気づかされるのだ。

 

「あなたのことを愛しています」2010/9/17

 

もうわたしにはあなたしか眼に入らない。

 

あなたのことだけを愛しています。

 

 

 

「あなただけへの愛」を

 

どれだけたくさんの人々に

 

音にのせて とどけることができるか?

 

音楽とは「究極の嘘」である。

 

だから素敵だ、それで生きていくだけの価値がある。

 

「一瞬の永遠」2016年1月4日

一瞬は永遠だ。時間の密度が高ければ高いほど一瞬は愛しいし、やはり永遠なのだ。音に命が詰め込まれていて、音色が素晴らしいから、音数はどんどん少なくなっていくんだよね。僕らは命の最後の最後に音がひとつになっていく、そのために生きているのかもしれない。世界は分割されているけど、地球はひとつだってことを音楽と音楽の「外側」からいつも感じている。

 

 

「フィールド」2015年12月31日

フィールドって大事。隣に手が届くフィールドじゃなくてだだっ広いフィールド。そのだだっ広いフィールドをたくさん持っていることが大切。理想、そこに向かっているのだけど、公演などは「興行」ではなく、作品、パフォーマンスが必要とされていて、お客様が無料で鑑賞できて、しかも収益(報酬)がある。そのための構造をいつも考えてる。それが実現すると、良くないものは淘汰され、いいものがきちんと残る。そうなるためには「あっ!」という収益の構造を作るしかない。作る?・・・・・いや、「いざなう」だな。

 

 

「届けると広げる」2015年12月30日

「広げる」のではなく「届ける」そして「留めさせる」「広げる」こと”だけ”を考えると「届ける」ことを忘れがちになる。「広げる」ことに夢中になると薄くなってしまうことに気がつかなくなる。墓前の向こう側にいるご先祖様に向けて演奏をするとき、そう思った。

 

 

「言葉の背景その2」2015年12月26日
「サッカーとは何か?」を僕が語ることはできない。知識があったとしても語れない。僕は日本代表選手でもないし、Jリーガーでもない。サッカーの世界で競って闘っているわけでもない。それ以前に「サッカー選手じゃない」。だからたとえ、サッカーを語れたとしても「語った言葉の背景を持てる生き方をしていない」ということだ。つまり、語る資格はない、ということだ。さて、「音楽とは何か?」ここには改めてじっくり考える暇もなく常に目の前に、手の中にある問題だ。


「場所」2015年12月25日
ここのところ、好調な海外。表に出してないけど(笑)やっぱ、ヨーロッパ大好きだぁ~!でも、いつも思うけれど、自身をどこに置くのか?環境とは何なのか?というのは考える。手を伸ばしても届かない、だだっ広い原野に自身を置くことによって寂しいけれどいい方向に進む。「輪」は手の届かないほど大きいほうが面白い。陳腐化しないし。


「批判精神とバランス」2015年12月20日
今日は沼津、大岡のweekend booksに来ています。ブローチの展示?を見ました。いろいろみて思ったのは「売れなきゃダメなんだけど、売れてるだけじゃダメなんだな」と。「いいものだから売れてるというのは幻想なんだよな」と。当たり前のように考えていたけど、改めて反面教師的実感があり、よかったです。でも、素敵なケーキと素敵な本に出会えました。岡上淑子さんの作品集、山口小夜子さんの本?に出会えました。

 

 

「引力」2015年12月15日
音楽は狭い意味では「引力」だと思う。音に引力を持たせることによって音程が「認知」され、その並びによってハーモニーにも引力が「加え」られる(カデンツとかまた逆にセリーだってある意味引力を持つ)。ただ、今思うのはその「引力」をもっと他の場所から見つけていたいと思う。その引力は眼にも見えず、耳で感知することもできず、全身で感じる振動のようなものだ。たぶんそこに行かないと本来の根っこ(本質→使いたくない言葉)はわかんないんじゃないかな?

 

「雑感」2015年12月15日
過去に書いた音楽や文章を恥ずかしい!と思わなくてすむためには自身の成長を止めるしかない。ところが、そうさせてくれない。

 

「雑感」2015年12月14日
言葉の背景って重要よね。どんな言葉でも発している環境や人において条件があってその条件っていうのが背景だと思うんだ。

 

「はかる」2015年12月13日
常に、はからずも はかり、はからず、常に自然体、か。故・菊地雅章氏の言葉を思い出した。

 

「下界」2015年12月13日
「降りていかない」とか、「広げない」ということも大切だなぁと思っている昨今、広げようとすると、いろんなものを吸い上げてしまったり、「降りてきたら」せっかくのロイヤリティやクオリティがほんとに「降下」しちゃったり…あとは、やっぱり、当たり前の当然の今さら言うことでもないけど「内容と質」は一番重要だなと。僕は偉大な先人には降りてきてほしくないな。常に高い所に鎮座していただき、僕らはその爪の垢を煎じて飲み続けたいものだ。敷居は高いからこそ意味があるし、目指す価値がある。何故なら高い所に行きたいからだ。

例として、広げようとするとアメリカンコーヒーになる。美味しさを保つ程度がいい。でも僕は濃くて激しさを感じるほどの苦味のあるコーヒーがいいな。激しいエスプレッソだな(笑)こういえばわかりやすい。

 

「一流の仕事から学ぶ」2015年12月12日
先日のNHK番組プロデューサーで作家の竹内氏のお話から掘り下げていく。つまり、ひとつひとつを大切にベストを尽くし、闘い、積み重ねることでしか一流にはなれんのだなと。長岡秀星先生も仰った、「人生はタイミングだ」と。種から芽吹き、大樹になるためには時間がかかる。ひとつひとつを積み重ねているからだ。大樹は遠慮しない、「自身が育つ」つまり、甘んじないということか。また、いつも思うけれど「今自分はどの層にいるのか?」ここをしっかりわかっておくことが大切だ。一流の仕事から学ぶことは非常に多い。

 

「ホンモノの条件」2015年12月11日
今日(昨日)、深沢先生の演奏を拝聴していて思ったのは、たとえどんなに楽器のコンディションが良くなくてもたとえどんな環境でも200%300%の演奏を聴かせることができる、そんな人になりたいって思いました。ホンモノはどんな状況でもガンガンに音楽を「伝える」ことができる。それは、たとえば、坂田誠山さんの尺八、ただ単に軽く、遠くで音出しをしただけで楽屋でいびきかいて寝てた僕がその何気ない音に飛び起きて走ってステージ脇に行く。そのこともそうだし、YouTubeでしか観たことがないメレディス・モンクだってそうだ。素人がこっそりライブを隠し撮りしたメレディス・モンクの演奏、音楽、ここにどれだけガンガンに音楽を感じているだろうか、僕は。すご いものは、常に、既に、いろんなものを超越しています。エントランスバンドだってそう。僕はホンモノになれるかどうかまだまったくわからないけれど、それでもそこを目指したい。中途半端に完成するくらいだったら一生未完成でいいからもっと上手くなりたいし伸び続けたいって思いました。いや、思った、って今思ったんじゃなくてずっと思っているんだけど、単に僕自身の再確認ってことです。

 

「見え方と見せ方」2015年12月9日
いやーこれはやっぱり難しいんです!まあそのままでもいいのですが、でもやっぱりしっかり考えたいのです。僕の体型は何故か足だけは細い。ここをなんとか活かせないだろうか?例えば、立ち方も実は足の角度や開き方とか関節の角度とか考えているんだけど、ウエストがでかいぶんズボンの足がブカブカなのです。だから微妙な足の角度とかが見ててわからない!んで、ちょっと考えた。ジーンズはストレートではなく、スリムにしてウエストはデカイまま(てか、痩せろ!笑)そうすると足の見え方は変わるかな・・・とか。スリムにしても足がブカブカだったら、お直し屋さんで少し足回りを詰めてもらえるかな?ちょっと研究してみるかね。

 

「音楽の棲み家」2015年12月6日
たぶん、「音楽になる前に音が出ちゃってるから」音楽家は悩むんだろうな。だから音は点にしかならないし、時間はカウントにしかならない。でもね、本当は音楽と音の境界線なんてないんですよ。今日明日でアレンジに目鼻をつける。さて、”目鼻をつける”前に「見える」ようになっているか?「嗅げる」ようになってるか?そこが大事ですなぁ・・・

 

「仕事レポートその2」2015年12月4日
その後山口県に入り、12月2日は周南市の熊毛中学校吹奏楽部の皆さんと父兄の皆さま方に向けて講演会だった。顧問の井町先生、しっかりとフォローしてくれたあこちゃんには心より感謝の気持ちでいっぱいである。たくさん伝えたいことがあるので絞り込むのにとても時間がかかった。生徒さんの特徴や、普段僕が取り組んでいる、「芸術と社会の界面」、そこからいかにわかりやすく、示唆に富んだ内容にしていくか?が大きな課題だった。
コンセプトキーワードは「社会性と個」「個があるからアンサンブルになっていく」だから、「個を見つめなおしてみよう」といったところだろうか。一般的に言語力の低下が著しいと感じる昨今、音楽を言葉にし、自らの言葉で語り、自らの音で奏でること、そのことが音楽だけでなく、学校生活、家庭の中でのコミュニケーションやまた或いは勉強、自身の将来を自身で決めて突き進んでいくこと、将来社会人になったときに、また父親、母親になったときに「個を見つめる音楽」はきっと彼らの大きな人生の糧になるであろうと考えている。
人の出会いは点であるが、その点が個人個人のフィールドで面になっていくことは人にとってとても重要だ。音楽人、芸術家である前に社会人であれ。社会人であるまえに人であれ。個の力、個の成長は全体を育てる。個を大切に社会の中で生きていくこと、社会の中で関わって生きていくこと、これこそまさに人生のアンサンブルではないか!
生徒の皆さんのこれからが明るく、ハッピーで充実したものであることを心より願う。

 

「仕事その1」2015年12月4日
帰宅し、洗濯終了。今回の仕事その1は岡山市の水と緑のアートプロジェクト「クロスロード」。最近、いいねぇ~と思ってるのがこのダンサー。矢萩もえみちゃん。今回はクロスロードというタイトルのプロジェクトだが、その分岐点にさしかかったような感じ。キャスティングは成功!「あぁ~コイツを彼女にして街を歩きたい」って思えるのがキャスティングの基本。(彼氏に怒られないようにすること!笑)すべてはシンプルである。今回は音と構成だけ作ってあとはもえみちゃんに丸投げにしたけれど、実際リハのときに初めて振付をみてちょこっといじった。衣装とか、道具とか。そこに清水さんの演出がいい感じで入って助かった!サウンドはJBLの・・・うーんなんだっ け?よく見かけるのだけど品番出てこん!サウンドはかなりパワーがあり、野外ということを考えてマスターでは低音をゴリゴリに上げておいた。どうしても前後の曲調の異なりで地ならしはできなかったけど。そこは音響の方々がフォローしてくださった。楽器の音は今までウェットにしてあった音をややドライ気味にしてテクスチュアを明確にしたらとてもよくなった。今後はこのバランスでいこうかな。あとは、課題としては「スイッチのオンオフ」という考え方をやめることだろうか。だいたい、スイッチのオンオフがあること自体生ぬるいと思う。自身が音楽であるならば、スイッチなんぞは必要ない。そこかな?

 

「目標」2015年11月17日
厳しい音、音楽が出るようになりたいな。また目標が増えたね。

 

「ダメ人間の説得力??」2015年11月17日
なんか、人間がダメダメのときに作った音楽や文章って全然ダメだよな。
ケツ青いときはケツ青い音楽しか作れない。って自分の聴いてて思った(笑)対象を持っていたり基準を持っているとき、対象や基準を超えたものは生まれてこない(超実感!)。芸術はたまに欺くことがあるかもしれないが美は欺かない。(欺く欺かないの良し悪しはおいといて)まあ、何にせよ、せっかく人間なんだから多少汚れているくらいのほうが面白みはあるのかもしれない。

 

「戦うな!」2015年11月14日
僕は以前、仲間を助けるために矢面に立ち、争いの中に自身を投じて闘っていました。ところが実は巻き添えをくっていただけだったことにあとから気づきました。(そりゃ当然です!仲間であるはずの人間を助けるために身を投じていたのですから巻き添えっていうか「当事者」)そして、それは闘っていたのではなく、単に争っていただけなんだということにもあとから気づきました。だから、争いの渦中には何があっても身を投じてはならんのです。今回テロの標的になった罪のない人たち。罪のない犠牲者の方々は知らないうちに「争いの渦中」にいきなり放り込まれたのです。そしてもう既に地球上のほとんどの場所が目に見えない、いきなり現れる「争いの渦中」となっているのです。もう既に地球 上のほとんどが戦争状態といっても過言ではないのです。

 

「原理」2015年11月17日
香りと音楽を仕事のラインにのせてちょっと経ちますが、香りって表面で感じるだけの香りだけじゃなく、なんていうんでしょ?種類を嗅ぎ分けるとかそういうことじゃなく、どこに作用していくか?(うまくいえないのですが)ということを深く観察していくと、やっぱりここでも、聴くことも観ることも触ることも何もかもがひとつであることがわかります。たぶん、原理に沿わない暮らしをしてきた僕たち現代人は、本来のものが不自然に思えたりすることもあるのでしょうね。原理から離れる=表現、だと僕は思っていますが、無理やり原理に沿う必要もなくて、(そこはそれこそ個人の自由ってぇ~やつでしょうね。)無理やり原理に沿わなくてもいいし、無理やり原理から離れようとしなくてもいい。自然体って人それぞれなんでしょうね。ところが、今いろいろやっていることは、少なくとも「原理から離れるとはどういうことなのか?原理に沿うとはどういうことなのか?」を思考することが大切で、それが次の仕事へとつながっていっているんです。まだ言えないけど(笑)


「響き」2014年6月20日
音が響く、とは、「振動」という命のきっかけが止まる(命を終わらせる)場所を求めて、時間の限り走ることである。人間という身体は減衰していくような生き方をし、心はその逆の増幅しようとする生き方をする。減衰と増幅、この反比例が人らしい生き方なのだなと思う。また、音楽も人間が生み出したものは常に増幅だし、自然に存在する音は常に減衰だ。そうか、だから響かないことをデッドって言うんだな。

 

 

 

「溢れる音」2015年10月23日
音楽がたくさん無尽蔵と思えるくらいに溢れていると、いろいろ考えるところは出てくる。音楽を聴かせる、ということ自体が当たり前になっていてたくさん生み出される音楽は生み出せば生み出すだけどんどん埋もれていってしまっているんじゃないかなとも思える。そして、音が溢れてしまっているため「聴く」のではなく嫌でも耳に入ってきてしまうからシャットダウンしているのだと思う。それが「聴く」という行為が希薄になってしまっていること、ということだ。

今までは「音楽を聴けばわかる」ということでおさまっていたが、「聴く」という行為が希薄になってしまっている以上、耳をオープンさせる(心を開く)ためには作者、演奏者の「言葉」も必要だ。語りすぎてはいけないが、語っていくことも大切になってくるだろう。何を語るのか?それは作品を語るのではなく、人が一番興味を持っている「音楽を作った人そのもの」について語るべきなのかもしれない。人への興味から音楽に引き込んでいく、その努力が必要なのだろう。

「印象に残る音楽」ということだけに囚われてはいけない。多くは、「印象に残る=音楽構造」と捉えがちだからだ。音楽はもっと広いし、もっと奥深いところにその本質がある。そこに気がつけば自ずと「聴く」という行為になっていくのだろう。

 

「生きていくために」2015年10月23日

内容を大切にしないといけないことは当然、そして「良い内容」だけではもう生き残っていけないことを自覚することも大事。だけど、バランスが崩れると、「良い内容は当然」としながら知らない間に内容が陳腐化してしまうことも多々ある。だから、たまには振り返ったりしながら「本当に内容を大切にしているか?」を問うことが大事だ。それと同時に「内容さえよければいい」という大きな過ち、錯覚に陥っていないか?ということを単に自己客観ではなく、「ネコ理論」の実践の中から見つめていくことが大事。あと、世の中って、大きな、お金の流れを中心に動いている層と、大きな流れとは無関係の層がある。つまらないことに流されたくなければ、大きな流れとは無関係の層で実直に動いていたほうがいい。一般的に、全ての流れはひとつのものと捉えることが様々な混乱を生み出している、だから「層」をしっかり見極めることが生きていくうえで重要だ。

 

「何もしない時間」2015年10月18日

仕事、作ることにおいて、速度、早さはすごく重要だなと。普段が即決が多いので、「何もしない時間」を作ることができる。この「何もしない時間」というのがすごく大切で、ここでぼやぁ~っとしながらいろいろ考える。速度と早さがあると推敲もできる。「作業」をするのに時間をたくさん使えない、時間を使うのなら「考える」ことに使ったほうがいい。また、気をつけることは「考える」が「悩む」に変質してしまうまえに「決める」ということだろうか。

 

「中心にあるもの?」2015年10月17日

どこまでも外れて、そして中心にいる、音も言葉も。そうか、よく考えてみると僕自身も外れていながら、常に中心にいる、ということがよくわかる。音と言葉、か。理由がなくなったり、分析される要素がどんどん薄くなって消えてなくなっていくことが中心に移動していくということなんだろうな。もっと簡単に言えば、「世間は狭いが立っている世界はとても広い」だから苦労しちゃうんだろうな(笑)

 

「物欲に変わるもの」2015年10月17日

最近、物欲がほとんどない。何かを考える時間、何かを受けてそこから身体の中、頭の中で何かが生まれることが、その時間が物欲のかわりなのだろうか?仕事に取り組んでいる時間、書いている時間、それが社会の中でカタチになっていき、それで生活をしている、そのことにとても充実感を覚えます。考える、生み出すことだけに固執してもなく、考えたりほわーとしながら生み出されたものが社会の中に入り込んでいく、作ったものが作ったものとしてただそこにあるのではなく、社会に認知されていくことが、僕にとtっては「物欲の代替」なのかもしれません。だから例えば、絵画を鑑賞して気に入った作品に出会えても、その作品が欲しいと思わず、その作品からインスパイアされて生まれてきた言葉や音が仕事として社会に浸透していくこと、これが僕の「欲」なんだなと。わかりやすく言えばそんな感じです。美味しい鶏団子を作れたときの喜びとそれを食べて美味しいと言ってくれる人、また作ろう!って思える自分自身、そのことと、言葉や音楽を紡いで、お客様に喜んでいただけることは同じ喜びであり、欲なのです。

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